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ヨアブさんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年11月28日 16時33分02秒

ヨアブさんへ。
管理者です。
ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。
ヘブライ大学で学ばれたことのある牧師にヨアブさんのご質問を見ていただき、ヘブライ語に関するご質問については、以下のようにお返事をいただきましたので、お伝えいたします。
補足も書き込んでくださっていましたが、それを含め、教義学的な点については、また別の先生に問い合わせていますので、その点につきましては、今しばらくお待ちくださいませ。
------以下回答文------
ヘブライ語で「エハド」は数詞の「1」、「ヤヒド」は「唯一の、単一の」という形容詞で、
後者は「たった一人の子(自分)」との含意があると見受けられますが、神にこれが適用される例はありません。
三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて、
父なる神、子なる神、聖霊なる神について、旧新約合わせた聖書全体が表出するものを、
他の教えと慎重につき合わせて検討しながら総合したものです。
申命記6章4節を例にとれば、そこにある「アドナイ・エハド」は釈義的には「主は一つ」というだけであって、
その「一つ」の内に多様性や重層性を含むしるしはどこにもありません。むしろ、申命記の文脈で言うならば、
多神教の土地(カナン)にあって「主は一つ」との明確な信仰告白を打ち出したのが、この言表だと理解できます。
ですから、ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。
つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。
その他に、聖書には父なる神についての教説があり、子なる神であるキリストの教説があり、聖霊なる神についての教説があって、
それらの三位格がそれぞれ独立しながらも切り離し難い関係に結ばれていて、一つの救済の業に従事していることが、聖書から読み取られます。
それで神は三位一体である、との教会の解釈が成立し、古代教会の神学論争を経て、三位一体の教義が確立します。
そのようにして教会の神理解が確立すれば、そこから「アドナイ・エハド」と読むときに、
その「エハド」が意味するところは「三位一体」という多様性を含むと述べることができるようになります(神学的解釈)。
------------------------------------

前回の質問の補足

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年11月28日 15時55分12秒

前回の質問の補足です。文中の「複合的独一性」の直接の参照先は、ウィリアム・ウッド著『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社 1990年初版)の34頁で、その記事の典拠と思われるのが同書の82頁で引用されているエドマンド・フォートマンなる人物の『三者一体の神』と訳されている著書であり、その原題を( )の中に表記しています。

唯一の神の「一」についての質問

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年11月24日 00時14分01秒

申命記6章4節で、聖書が啓示する神さまが「唯一」なる存在であること(「唯」は原文には無い補訳)を示す言葉「エハード」(or「エハド」、「エハッド」)には、「三位一体の神」の教理を根拠づける「一つのうちにおける多様性」を暗示する『一』」という意味(『Theological Wordbook of the Old Testament, Moody Press,1981』参照)や、あるいは「複合的独一性」(Edmund J.Fortman『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』参照)といった意味があるのでしょうか?
ある旧約学者は、「一つのうちにおける多様性」云々の意味は「エハード」ではなく「ヤヒード」の方であり、「エハード」は「一」という数詞(個数、序数)であり、用例としては幕屋の組み立てとか男女の一体化のような複合性を示すことがあるにはあるが、そういう意味が第一義的であるとは言えない旨を述べておられます。
これはヘブライ語の専門的な問題にもつながりますが、単に語学のレベルだけではなく神学的解釈として妥当性があるか否かが問題です。「エハード」の原義が「一」という数を意味することは確かですが、その「一」が三位一体論の「一なる神の内に三つの位格がある」(1>3)といった命題を根拠付け得る「一」と言えるのかどうかです。上記の旧約学者の説明からすれば、「ヤヒード」ならそれも可能になるのかも知れません。しかし聖書で「唯一なる神」を表す場合の「一」は「ヤヒード」ではなく「エハード」であり、一部の用例をもって教理の根拠とし得るかどうなのかが神学上の問題になります。キリスト改革派教会の立場でのコメントをよろしくお願い致します。
ちなみに私は、Jehovah's Witnessesとは関係ありません。

有又屋さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年10月25日 18時12分17秒

ご指摘ありがとうございました。
「遍在」が正しいです。
早くに書き込んでくださったのに、公開手続きをするのが遅れてしまい、大変失礼しました。

「偏在」ではなく「遍在」ですね。

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年10月05日 19時54分50秒

早速の御返答をありがとうございました。良き学びが出来ました。
ところで「偏在」は「遍在」の変換ミスですね。実はその変換ミスがキリスト教関係のサイトに少なくないようで、これを見た人物がキリスト教用語に「遍在」だけではなく「偏在」もあると思い込み混乱を巻き起こすケースもあるようです。神さまが自分たちのところだけに「偏在」して欲しいのかも知れません。

御指摘のウェストミンスター信仰告白2の1を確認致しました。
「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、」
問題は、神さまには「からだも部分」(もない)という根拠聖句として、申命記4:15(~16)とヨハネ4:24はよいとして、ルカ24:39というのがどういうことなのか?と思います。これは主イエスの復活の体について言われたものであり、むしろ私が三位一体の神に「からだ」があるのでは?と思う典拠の一つです(ヨハネ20:27も)。だから、神さまに「からだ」がないと言う根拠となる聖句ではなく、逆に、神さまに「からだ」があると言う根拠となる聖句ではないかと思います。さらにルカ24:39は新改訳では「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」となっていて、「亡霊」と訳されるギリシャ語「プニューマ」は「霊」とも訳せます。これはヨハネ4:24で「神は霊なり」と言われているところの「霊」と同じ言葉なので、矛盾するとみることも可能でしょう。
要するにルカ24:39やヨハネ20:27の主旨は、肉体を軽視する異端の考え方へのアンチテーゼであり、神に(物質的)身体があることを主張するものではないにせよ、「霊」という表現では言い尽くせない、むしろ誤解を招くおそれがあること、すなわち三位一体の神はあやふやな存在ではなく確かに人格的に実在するお方であるということですね。これが、イエスさまの「受肉」の秘義であり、また「復活の体」の意味であること、イエスさまが「真に神」であると同時に「真に人」でもあることの意味であることだとわかりました。おかげさまで良き学びが出来ました。感謝です!以下は、御返答から敷衍して私が理解した内容です。

御指摘のとおり聖書は「偶像崇拝」への警戒から、神さまが形なく見えない存在であることを強調しているのでしょうが、その神のかたちがキリストであるとも言われており(コロサイ1:15)、御子が父と同一本質の神であるという教理の主旨がこの点にあると思います。つまり歴史上に人として存在したイエスさまの復活の身体を抜きにしては神さまの実体性はわれわれに見えてこないということではないでしょうか?「神、人に成り給へり」という受肉の真理がここに隠されているようです。歴史と無関係なことに確かさはなく、人として生きた「体(からだ)」以外に人格的存在としての「体(からだ)」はありません。いくら神は実体であると哲学的言辞を弄しても、その神が人間の歴史現実から天高く離れた存在では「遍在」も「内在」も空理空論にすぎません。
旧約の時代は、人々がいかにして神さまの存在を感じ取っていたかと言えば、十戒の言葉であり、それを入れた契約の箱であり、いまひとつ具体性を欠き、神さまの得体が知れなかったので、より深く神さまの臨在を感じたいという思いから偶像への誘惑に陥ってしまったのではないかと推察します。これに比して新約の時代には、イエスさまという歴史的実在者にもとづいて神さまを知ることが出来るようになり、ますます神さまの得体が知れるようになりました。この件に関しては、まさにヨハネ14章のピリポのように「満足」できるようになったわけです。すべてはイエスさまのおかげ、その御子をお送り下さった御父のおかげ、そしてそのことに気づかせて下さる御霊のおかげです、ハレルヤ!

有又屋さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年10月04日 21時32分12秒

ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。
「神の体」についてのお尋ねですが、ご質問の最後の部分についてお答えしますと、ウェストミンスター信仰告白第2章1で、神は「存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、普遍、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、・・・」と記されています。
この中の「見ることができず、からだも部分も(なく)」のところに付けられている引照聖句(それを言う根拠となる聖句)を調べてみますと、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神」(一テモテ1:17)、「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」(申命記4:15)と、ヨハネ4:24、そして「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)が挙げられています。
これらから読み取れることは、神は「目に見えない」、けれども、亡霊のようではない、ということです。おっしゃるとおり、神さまは得体のしれない存在ではなく、人格的存在でいらっしゃるので、それを表現するために、聖書は、人間の動作のような表現を神さまにも使います。他方で、聖書が、神さまは「目に見えない」お方であるということを強調している理由は、人間が偶像を造って拝まないようにするためです(申命記4:16以下参照)。
以上、足りない答えかもしれませんが、参考になさってください。

神さまにはいかなる意味においても「体(からだ)」があるとは言えませんか?

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年10月04日 19時42分49秒

ひとつお教え願います。「神は霊なり」(ヨハネ4:24)のみことばを根拠に、「神は無体なり」とのドグマがみられます。しかし御子キリストには復活の体があり、これはトマスに対して触ってみよと言われたとおりの感覚的対象です。昇天して父なる神の右に座し給うキリストは現在もその復活の体をもっておられるということは聖書に反する理解ではありません。そして聖書が示す神とは、その在天の御子キリストを中心位格とする三位一体でいまし給うのです。ということは、この三位一体の神は御子キリストにおいて「体(からだ)」といえるものを持っておられると言えるのではないかと思います。その御子の復活の体と同様の体を終末に聖徒らも「霊の体」として与えられるといわれています。これは生前の物質的身体である「肉体」とは異なりますが、聖書では全く無関係と言われておらず、むしろ関連性が示されているということは他の質問で指摘されているとおりです。
ところで三浦綾子さんは、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」と述べておられます(~『旧約聖書入門』)。たしかにモルモン教などで言われるような意味での、すなわち「物体」としての意味での「体(からだ)」は、聖書が示す「神の体」とは言えません。神は目に見えないわけですから。然るに、神はいかなる意味においても「体」といえるものをお持ちにならないのか?というと、やはり「名は体を現わす」とも言いますし、YHWHという固有名を持つ主なる神は、比喩ではあれ「天に座する」とか「人と共に住む」とか言われており、その座したり住んだりするところの身体性を感じさせます。「実体」という哲学用語を持ち出すと話がややこしくなるので避けたいところですが、とにかく、神さまは人格的存在であり、けっしてつかみどころのないような得体の知れない存在ではなく、「顔」などの身体表現に示されるように人間と向かい合う存在であられる以上、何らかの意味では聖書から「神の体(からだ)」といえるものを認めることができるのではないでしょうか?この点、ウェストミンスター信仰基準ないしは改革派神学ではどのような解釈を提供しているでしょうか?

三並良一さま

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年08月21日 22時14分54秒

三並さま
ご質問をお寄せ下さりありがとうございます。公開と返信が遅れていて申し訳ありません。このご質問に関しましては、少しお時間をいただきたく存じます。どうぞご了承くださり、今しばらくお待ちくださいますよう、お願いいたします。

復活の教理に関する質問

投稿者:
三並良一
投稿日:
2014年08月20日 20時44分54秒

管理者さま
頌主 ぜひ、以下の件につき、牧師先生の御見解をお伝え願います。
日本キリスト改革派教会の創立六十周年「終末の希望についての信仰の宣言」の中に、「復活の体は、墓に葬られた血肉の体とは性質において異なり、神の国を受け継ぐにふさわしい朽ちない霊の体です。しかし、同じ自分の体であり、まったくきよくされた自分の魂に再び永久に結び合わされます。」とあり、復活体と現在の身体との連続・同一性と、非連続・非同一性との両面が示されています。私は連続・同一性の面について質問します。
「墓に葬られた血肉の体」という表現から、これは土葬を前提としていることはわかります。ウェストミンスター信仰基準も、その根拠となっている聖書箇所も「墓」には遺体があるということ、土葬を前提としているのでは?
しかも、キリスト再臨時に、まだ腐り果てていない状態、すなわち骨だけになっていない「体」を成している状態を想定しているかのようです。
たとえばヨハネによる福音書5章28節の「墓の中にいる者たちはみな神の子の声を聞き」と言われている、その「墓の中にいる者たち」は、火葬された遺骨のそれではなく、土葬されてまだ腐り果てていない死体が念頭に置かれているのでしょう。だからこそ、その「体」と「復活の体」との連続性が出てくるわけです。「骨」だけの状態はもはや「体」とは言いませんから。
しかし現代の教会の信者はみな火葬なので、土葬を前提としている聖書の文言および教理を、火葬を前提とすることとして読み替える必要があります。その場合、遺骨と復活体との連続・同一性ということになり(もちろん一方には非連続・非同一性もあるが)、いかにして遺骨から復活体へ連続・展開し得るのか?という疑問が生じます。これは思弁ではなく、信者の実際的な問いです。葬儀の説教でも牧師はこの点を誤魔化さずに、聖書本文から解き明かす努力を求められるべきです。第一コリント15:42~44あたりを中心したメッセージになろうかとも思いますが、果してこの点、牧師さんたちはどのように釈義して説かれるのか、その点をお教え願います。
ついでに、もう1つ、質問があります。「墓の中にいる者たちはみな神の子の声を聞き」ということは、「墓の中にいる者」が、神の子の声を聞きわけるための「意識」があるということです。これはウェストミンスター基準では「霊魂」の働きです。しかし、霊魂は死後ただちに天国に行っているわけです。墓の中にあるのは肉体ないしはその骨だけなのです。なのに、終末のキリスト再臨時には、墓の中に魂が帰ってきているということになります。そういう理解でよろしいのでしょうか?
以上、信仰生活において重要なことなので、2点につき、お取り扱いをよろしくお願い申し上げます。在主

capさま

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年08月16日 16時42分21秒

ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。難しいご質問ですね。
切断された足や腕が元に戻ったという話は、私も聞いたことがありません。
適切な例かどうかわかりませんが、レーナ・マリアさんにお会いしたことがあり、その時に思ったことは、とても器用に体を動かされていて、まるで腕がおありかのような錯覚に陥った、ということです。満面の笑みをたたえて話す彼女を思い出しながら、ご質問についていろいろ考えてみたのですが、脚や腕を切断されたり、あるいは、レーナさんのように生まれつきなかった方々の「癒された状態」とは、果たして「元のように生えてくること」なのかどうか、ということです。体の他の部分が失われたところを補って余りある働きをしているところは、capさんもご覧になったことがおありではないでしょうか。
考えてみますと、どんな病気やケガでも、「治った」といわれる状態になったとき、それは「元に戻った」わけではないと思われます。傷跡が残ったり、体質が変わったり、ということが伴っています。
神さまは、体そのものの癒しのためだけでなく、病を得た私たちの心を癒やすために御手を差し伸べてくださり、「それでもなお生きていこう」とする私たちの心を励まし、力を与えてくださるのだ、と思いました。

詩編103:2-4にこのような御言葉があります。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。」

「病の癒し」が「罪の赦し」と「命の贖い」と同列に並べられています。「病がすべて癒される」とは、切断された腕や足も生えてくるくらい、あらゆる病気が治る、という意味ではなく、私たちが病と罪と死の恐れや苦しみから解放されて、いきいきと生きられるようになるということを意味しています。