ラジオ番組 キリストへの時間の掲示板

ラジオ番組キリストへの時間のトップページに戻る

掲示板

「キリストへの時間」の掲示板です。ここに、あなたの意見や感想を記すことが出来ます。担当者も毎日チェックしていますので、質問や疑問があれば書き込んでみてください。

内容に関して特に制約は設けていません。ただし広告等に関するものは、管理者の判断で削除されることがあります。ご了承ください。

入力フォーム

投稿内容

画像認証

画像の文字を入力してください
別の画像に変更

旧約の神YHWHは、「父なる神」それとも「三位一体の神」、どっちですか?

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年12月29日 14時47分44秒

旧約聖書でイスラエルの神とされている神聖四文字で表されるところの神(エホバ、ヤハウェなどの呼称)は、新約聖書ではイエス・キリストが「父」といわれた神ですか?それともキリスト御自身も第2位格の「子」なる神として含まれる「三位一体の神」ですか?どちらなのでしょうか?
たとえば創世記1:26の神の「われわれ」という1人称複数形の主語が「三位一体」を表すという伝統的な理解でいえば後者にあたり、同じく創世記18章でアブラハムを訪ねてきた三人の男を三位一体の神とする伝統的な理解でいえば前者にあたると思われます。ヤハウェはこの三人の内の一人であり、他の二人は使いだからです(19:1)。
さらにマルコ12章(および並行記事)などに記されたダビデの子キリスト論への反論の場面で引用されている詩篇110:1の理解では、「主=ヤハウェ」と「わが主=キリスト」とが従属的に区別されているので、これも前者にあたると言えます。もっとも「三位一体の神」という教義は後代のキリスト教において成立したものではありますが、聖書にその根拠があるという以上、「ヤハウェ=三位一体の神」という解釈が成り立つ聖書箇所がある程度は認められて然りと思われます。なぜなら、「ヤハウェ」が「父」の位格だけなら、「子」と「聖霊」の位格は旧約時代に神として啓示されていなかったことになるからです。「啓示の漸進性」というドグマもありますが、この聖書的根拠もヘブル1:1~2くらいで希薄です。数少ない聖句をもって聖書全体の教理として体系化することは大いに無理があると言えるでしょう。
さて、旧約の神ヤハウェは、新約においては「父」なる神のみを指すのか、あるいは「子(=イエス・キリスト)」と「聖霊」とを合わせた三者を指しているのでしょうか?

確認のための再質問です。

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年12月20日 18時14分15秒

クリスマスが近づき、特に牧師先生方は御多忙のことと存じます。先日は御返答を感謝致します。非常に専門的でしかもわかりやすく信徒にとって貴重な学びとなりますので、これを閲覧する他の多くの兄弟姉妹のためにも、さらに具体的に例文をあげて確認させて頂きたく存じます。お時間が許される時はどうか再度の御協力を心よりお願い申し上げます。

御返事の中で私が特に重要だと思うのは次の箇所です。
[三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて、父なる神、子なる神、聖霊なる神について、旧新約合わせた聖書全体が表出するものを、他の教えと慎重につき合わせて検討しながら総合したものです。申命記6章4節を例にとれば、そこにある「アドナイ・エハド」は釈義的には「主は一つ」というだけであって、その「一つ」の内に多様性や重層性を含むしるしはどこにもありません。むしろ、申命記の文脈で言うならば、多神教の土地(カナン)にあって「主は一つ」との明確な信仰告白を打ち出したのが、この言表だと理解できます。ですから、ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。]

(確認その1)
[三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて・・・]という点では、以下の2つの例文では、まさに「エハド」の「言語学的」な説明を通して「三位一体の教理」を「根拠づけ」ようとしているかのように私には思えます。すなわち「エハド」という言葉は単なる「一」ではなく、「多」を包含し得る「一」であるから、唯一の神の「一(エハド)」には、「父」のみならず「子」および「聖霊」の三つの位格を含むのだ・・・という御説のようですが、「ヤヒード」と「エハド」とを比べて後者をこのように三位一体論と結びつけることは、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけようとすることですから、これは誤りとみてよろしいですね?どうぞ明快にお答え願います。

(1)小海キリスト教会 水草牧師の「神を愛するための神学講座」より
[聖書は、神には三つの位格があることを啓示します。聖書の啓示は、旧約時代から徐々にベールを外されて来ましたが、新約聖書にいたって最も明白にこの真理は明かにされます。しかし、旧約聖書でもすでに、神には複数の位格があることが暗示されています。旧約聖書がかかれたヘブライ語には「1」を意味することばが、二通りあります。ひとつは「エハド」であり、もうひとつは「ヤヒード」です。「ヤヒード」は、単純に「一つ」「ただ一つ」という意味です。たとえば創世記22:2「あなたのひとり子イサク」と用いられたり、詩篇35:17「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。」と一つしかない「命」の意味で用いられます(他に詩篇22:20、アモス8:10)。他方、「エハド」は、「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときに用いられる言葉です。例えば、出エジプト26:6「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。」、同26:11「天幕をつなぎ合わせて一つとする。」、創世記2:24「ふたりは一体となるのである。」同34:16「・・・私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。」、エゼキエル37:17「その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。」などはそうした用例です。では、冒頭のみことば「主はただひとりである」の場合にはどちらが用いられているでしょうか。実は、「エハド」が用いられているのです。「主はただひとりである。」という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性が暗示される唯一性を示すエハドが用いられているのです。ここに、聖書を通して語られる唯一の神のうちには複数の人格があるという神秘が暗示されています。神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して「われわれ」とおっしゃいます。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・・』」(創世記1:26)「私は、『だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。・・・」(イザヤ6:8)ここで神はご自分について、「われわれ」と言っておられます。唯一の神の内に交わりがあるのです。]
http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BF%C0%A4%F2%B0%A6%A4%B9%A4%EB%A4%BF%A4%E1%A4%CE%BF%C0%B3%D8%B9%D6%BA%C2%A1%CA%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3%A1%CB#content_1_32


水草牧師は、「小海キリスト教会 牧師所感」というブログの方でも同様のことを述べておられます。「神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性を内包する一性を示しうるエハドが用いられているのです。三位一体を暗示するとまで断言はしませんが、興味深い現象ではあります。」と、こちらでは「三位一体を暗示するとまで断言はしませんが」とことわってはおられますが、事実上、上掲の文脈では「三位一体」の聖書的根拠の一つとして指摘されていることは客観的にみて否定できません。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111224/p1


(2)ウィリアム・ウッド著『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)より
[「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」三位一体なる主なる神だけが神であり、ほかに神は存在しない。主だけが永遠から存在され、全知全能なるお方であり、人類の造り主であり、救い主であられる、というのが三位一体論者の立場です。しかし、神の独一性を主張しながら、それが複合的な独一性であると信じます。これに対して、エホバの証人は、「神はひとりであると書いてあるのに、1+1+1=3ではないか」と言います。つまり、父も子も聖霊も神であるなら、神が三人いることになるのではないか、というのです。しかし、「ひとり」、あるいは「ひとつ」ということばは、聖書の中では、単一個体と同様に、複合的な統一体をも指します。](p34~35)

ここでも文脈的にみて「エハド」について説明されていることは明らかです。私はエホバの証人でもなければその支持者でもないので、本当にヘブライ語の「エハド」に言われているような「複合的」な「一」としての意味があるとするなら、そしてそれが「三位一体の教理」の聖書的根拠として、キリスト改革派教会のような高度な神学を営む教派・教会の先生方も認めることであるなら、私も受け入れることに何ら抵抗はないのです。
しかし私が気になるのは、このようにまことしやかに言われる「エハド」についての説明が、どこまでヘブライ語の正しい学識に基づいているのかということです。それが私の質問の動機です。私以外の兄弟姉妹も、上掲の2つの例文にあるような「唯一の神」の「一(エハド)」についての説明を見聞きすることがあろうかと思います。そしてそれを真に受けて信じ込むこともあるでしょう。それが必ずしも信仰上の大問題になるとは言えませんが、結果よければすべてよしとは言えないこともまた事実だと思います。指導者は誠実であるべきで、特に聖書語学に関しては、いい加減な情報や主観的な考えによって伝えるべきではなく、自ら学問を通して得た客観的知識に基づいて教えるべきだと思うからです。

それともう1点、[ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。]という御教示に関して確認のため再質問させて頂きます。
日本基督教団の信仰告白では「主イエス・キリストによりて啓示せられ,聖書において証せらるる唯一の神は,父・子・聖霊なる,三位一体の神にていましたまふ。」とあるように、「唯一の神」の「一(エハド)」と、「三位一体」の「一」とは果たして同義であるのかも疑問です。「一体」の「体」はギリシャ語で「ウーシア」、ラテン語で「スブスタンティア」あるいは「エッセンチア」であり、「実体」とも「存在」とも「本質」とも訳される言葉です。すなわち「一体」とは「父、子、聖霊」の「三位格」の相互関係を示すと言えます。従ってここでの「一」は神の内的な統一性を意味し、他の神々との関係における外的な意味はないと思いますがいかがでしょうか?つまり「唯一の神」の「一」と、「三位一体」の「一」とは区別されるのではないでしょうか?

以上、長くなり恐縮至極ですが、教理の学習においては私だけではなく他の兄弟姉妹方にとっても大切な学びの機会になると確信するので、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。在主

ヨアブさんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年11月28日 16時33分02秒

ヨアブさんへ。
管理者です。
ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。
ヘブライ大学で学ばれたことのある牧師にヨアブさんのご質問を見ていただき、ヘブライ語に関するご質問については、以下のようにお返事をいただきましたので、お伝えいたします。
補足も書き込んでくださっていましたが、それを含め、教義学的な点については、また別の先生に問い合わせていますので、その点につきましては、今しばらくお待ちくださいませ。
------以下回答文------
ヘブライ語で「エハド」は数詞の「1」、「ヤヒド」は「唯一の、単一の」という形容詞で、
後者は「たった一人の子(自分)」との含意があると見受けられますが、神にこれが適用される例はありません。
三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて、
父なる神、子なる神、聖霊なる神について、旧新約合わせた聖書全体が表出するものを、
他の教えと慎重につき合わせて検討しながら総合したものです。
申命記6章4節を例にとれば、そこにある「アドナイ・エハド」は釈義的には「主は一つ」というだけであって、
その「一つ」の内に多様性や重層性を含むしるしはどこにもありません。むしろ、申命記の文脈で言うならば、
多神教の土地(カナン)にあって「主は一つ」との明確な信仰告白を打ち出したのが、この言表だと理解できます。
ですから、ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。
つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。
その他に、聖書には父なる神についての教説があり、子なる神であるキリストの教説があり、聖霊なる神についての教説があって、
それらの三位格がそれぞれ独立しながらも切り離し難い関係に結ばれていて、一つの救済の業に従事していることが、聖書から読み取られます。
それで神は三位一体である、との教会の解釈が成立し、古代教会の神学論争を経て、三位一体の教義が確立します。
そのようにして教会の神理解が確立すれば、そこから「アドナイ・エハド」と読むときに、
その「エハド」が意味するところは「三位一体」という多様性を含むと述べることができるようになります(神学的解釈)。
------------------------------------

前回の質問の補足

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年11月28日 15時55分12秒

前回の質問の補足です。文中の「複合的独一性」の直接の参照先は、ウィリアム・ウッド著『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社 1990年初版)の34頁で、その記事の典拠と思われるのが同書の82頁で引用されているエドマンド・フォートマンなる人物の『三者一体の神』と訳されている著書であり、その原題を( )の中に表記しています。

唯一の神の「一」についての質問

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年11月24日 00時14分01秒

申命記6章4節で、聖書が啓示する神さまが「唯一」なる存在であること(「唯」は原文には無い補訳)を示す言葉「エハード」(or「エハド」、「エハッド」)には、「三位一体の神」の教理を根拠づける「一つのうちにおける多様性」を暗示する『一』」という意味(『Theological Wordbook of the Old Testament, Moody Press,1981』参照)や、あるいは「複合的独一性」(Edmund J.Fortman『The Triune God A Historical Study of the Doctrine of the Trinity』参照)といった意味があるのでしょうか?
ある旧約学者は、「一つのうちにおける多様性」云々の意味は「エハード」ではなく「ヤヒード」の方であり、「エハード」は「一」という数詞(個数、序数)であり、用例としては幕屋の組み立てとか男女の一体化のような複合性を示すことがあるにはあるが、そういう意味が第一義的であるとは言えない旨を述べておられます。
これはヘブライ語の専門的な問題にもつながりますが、単に語学のレベルだけではなく神学的解釈として妥当性があるか否かが問題です。「エハード」の原義が「一」という数を意味することは確かですが、その「一」が三位一体論の「一なる神の内に三つの位格がある」(1>3)といった命題を根拠付け得る「一」と言えるのかどうかです。上記の旧約学者の説明からすれば、「ヤヒード」ならそれも可能になるのかも知れません。しかし聖書で「唯一なる神」を表す場合の「一」は「ヤヒード」ではなく「エハード」であり、一部の用例をもって教理の根拠とし得るかどうなのかが神学上の問題になります。キリスト改革派教会の立場でのコメントをよろしくお願い致します。
ちなみに私は、Jehovah's Witnessesとは関係ありません。

有又屋さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年10月25日 18時12分17秒

ご指摘ありがとうございました。
「遍在」が正しいです。
早くに書き込んでくださったのに、公開手続きをするのが遅れてしまい、大変失礼しました。

「偏在」ではなく「遍在」ですね。

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年10月05日 19時54分50秒

早速の御返答をありがとうございました。良き学びが出来ました。
ところで「偏在」は「遍在」の変換ミスですね。実はその変換ミスがキリスト教関係のサイトに少なくないようで、これを見た人物がキリスト教用語に「遍在」だけではなく「偏在」もあると思い込み混乱を巻き起こすケースもあるようです。神さまが自分たちのところだけに「偏在」して欲しいのかも知れません。

御指摘のウェストミンスター信仰告白2の1を確認致しました。
「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、」
問題は、神さまには「からだも部分」(もない)という根拠聖句として、申命記4:15(~16)とヨハネ4:24はよいとして、ルカ24:39というのがどういうことなのか?と思います。これは主イエスの復活の体について言われたものであり、むしろ私が三位一体の神に「からだ」があるのでは?と思う典拠の一つです(ヨハネ20:27も)。だから、神さまに「からだ」がないと言う根拠となる聖句ではなく、逆に、神さまに「からだ」があると言う根拠となる聖句ではないかと思います。さらにルカ24:39は新改訳では「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」となっていて、「亡霊」と訳されるギリシャ語「プニューマ」は「霊」とも訳せます。これはヨハネ4:24で「神は霊なり」と言われているところの「霊」と同じ言葉なので、矛盾するとみることも可能でしょう。
要するにルカ24:39やヨハネ20:27の主旨は、肉体を軽視する異端の考え方へのアンチテーゼであり、神に(物質的)身体があることを主張するものではないにせよ、「霊」という表現では言い尽くせない、むしろ誤解を招くおそれがあること、すなわち三位一体の神はあやふやな存在ではなく確かに人格的に実在するお方であるということですね。これが、イエスさまの「受肉」の秘義であり、また「復活の体」の意味であること、イエスさまが「真に神」であると同時に「真に人」でもあることの意味であることだとわかりました。おかげさまで良き学びが出来ました。感謝です!以下は、御返答から敷衍して私が理解した内容です。

御指摘のとおり聖書は「偶像崇拝」への警戒から、神さまが形なく見えない存在であることを強調しているのでしょうが、その神のかたちがキリストであるとも言われており(コロサイ1:15)、御子が父と同一本質の神であるという教理の主旨がこの点にあると思います。つまり歴史上に人として存在したイエスさまの復活の身体を抜きにしては神さまの実体性はわれわれに見えてこないということではないでしょうか?「神、人に成り給へり」という受肉の真理がここに隠されているようです。歴史と無関係なことに確かさはなく、人として生きた「体(からだ)」以外に人格的存在としての「体(からだ)」はありません。いくら神は実体であると哲学的言辞を弄しても、その神が人間の歴史現実から天高く離れた存在では「遍在」も「内在」も空理空論にすぎません。
旧約の時代は、人々がいかにして神さまの存在を感じ取っていたかと言えば、十戒の言葉であり、それを入れた契約の箱であり、いまひとつ具体性を欠き、神さまの得体が知れなかったので、より深く神さまの臨在を感じたいという思いから偶像への誘惑に陥ってしまったのではないかと推察します。これに比して新約の時代には、イエスさまという歴史的実在者にもとづいて神さまを知ることが出来るようになり、ますます神さまの得体が知れるようになりました。この件に関しては、まさにヨハネ14章のピリポのように「満足」できるようになったわけです。すべてはイエスさまのおかげ、その御子をお送り下さった御父のおかげ、そしてそのことに気づかせて下さる御霊のおかげです、ハレルヤ!

有又屋さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年10月04日 21時32分12秒

ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。
「神の体」についてのお尋ねですが、ご質問の最後の部分についてお答えしますと、ウェストミンスター信仰告白第2章1で、神は「存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、普遍、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、・・・」と記されています。
この中の「見ることができず、からだも部分も(なく)」のところに付けられている引照聖句(それを言う根拠となる聖句)を調べてみますと、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神」(一テモテ1:17)、「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」(申命記4:15)と、ヨハネ4:24、そして「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)が挙げられています。
これらから読み取れることは、神は「目に見えない」、けれども、亡霊のようではない、ということです。おっしゃるとおり、神さまは得体のしれない存在ではなく、人格的存在でいらっしゃるので、それを表現するために、聖書は、人間の動作のような表現を神さまにも使います。他方で、聖書が、神さまは「目に見えない」お方であるということを強調している理由は、人間が偶像を造って拝まないようにするためです(申命記4:16以下参照)。
以上、足りない答えかもしれませんが、参考になさってください。

神さまにはいかなる意味においても「体(からだ)」があるとは言えませんか?

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年10月04日 19時42分49秒

ひとつお教え願います。「神は霊なり」(ヨハネ4:24)のみことばを根拠に、「神は無体なり」とのドグマがみられます。しかし御子キリストには復活の体があり、これはトマスに対して触ってみよと言われたとおりの感覚的対象です。昇天して父なる神の右に座し給うキリストは現在もその復活の体をもっておられるということは聖書に反する理解ではありません。そして聖書が示す神とは、その在天の御子キリストを中心位格とする三位一体でいまし給うのです。ということは、この三位一体の神は御子キリストにおいて「体(からだ)」といえるものを持っておられると言えるのではないかと思います。その御子の復活の体と同様の体を終末に聖徒らも「霊の体」として与えられるといわれています。これは生前の物質的身体である「肉体」とは異なりますが、聖書では全く無関係と言われておらず、むしろ関連性が示されているということは他の質問で指摘されているとおりです。
ところで三浦綾子さんは、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」と述べておられます(~『旧約聖書入門』)。たしかにモルモン教などで言われるような意味での、すなわち「物体」としての意味での「体(からだ)」は、聖書が示す「神の体」とは言えません。神は目に見えないわけですから。然るに、神はいかなる意味においても「体」といえるものをお持ちにならないのか?というと、やはり「名は体を現わす」とも言いますし、YHWHという固有名を持つ主なる神は、比喩ではあれ「天に座する」とか「人と共に住む」とか言われており、その座したり住んだりするところの身体性を感じさせます。「実体」という哲学用語を持ち出すと話がややこしくなるので避けたいところですが、とにかく、神さまは人格的存在であり、けっしてつかみどころのないような得体の知れない存在ではなく、「顔」などの身体表現に示されるように人間と向かい合う存在であられる以上、何らかの意味では聖書から「神の体(からだ)」といえるものを認めることができるのではないでしょうか?この点、ウェストミンスター信仰基準ないしは改革派神学ではどのような解釈を提供しているでしょうか?

三並良一さま

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年08月21日 22時14分54秒

三並さま
ご質問をお寄せ下さりありがとうございます。公開と返信が遅れていて申し訳ありません。このご質問に関しましては、少しお時間をいただきたく存じます。どうぞご了承くださり、今しばらくお待ちくださいますよう、お願いいたします。