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ヨアブさん(=愛用者様)へ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年08月24日 22時26分13秒

ヨアブさん、ご質問とお問い合わせページからのご指摘、ありがとうございました。なかなか難しいご質問でしたので、回答を用意できてから、ご質問と合わせてアップする予定でしたが、回答がまだ用意できておらず、お待たせしております。なんとかお答えしたいと思っておりますが、今少しお時間をいただきたく、ご了承くださいますよう、お願いいたします。

父子同等の教理に関する質問

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年05月29日 13時16分08秒

御子と御父とが同等であるということについてお教え願います。

ニカイア信条では「御父と本質を同一にして」(΄ομοούσιον τωι πατρί )と、「同じ」という言葉が使われ、アタナシオス信条では「その神性によれば父と等しく」(Equal to the Father, as touching his Godhead)と、「等しい」という言葉が使われていますが、これは同じことを言い表しているのでしょうか?

原語と訳語の違いもあるでしょうが、この場合、「同質」と「等質」とは同じ意味ですか?

問題はその聖書的根拠です。
ウェストミンスター大教理問答の問9では、「神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」とあり、「同等」の根拠としてはヨハネ10:30だけのようです。

聖書には、ニカイア信条の主要用語である「ホモウーシオス」という言葉そのものは無いことはわかっていますが、教会の信仰告白である以上、その根拠となる箇所はなければなりません。

さて、聖書の中で、御子と御父とが「同質」なり「等質」であることを示す箇所を教えて下さい。そのように解釈できることばを教えて下さい。
ある人は、ヨハネによる福音書10:30とか17:22(の「一つ(ヘン)」)を挙げておられますが、これだけですか?これが御子と御父が「同質、等質」であることの根拠聖句になるのでしょうか?「一つ」とは言っても、何が「一つ」であるのか具体的にはわかりません。本質とか実体が同一という意味にもとれますが、意志の一致という意味にもとれます。御子と御父との極めて親しい関係を象徴的に表わしているだけかも知れません。

ちなみに、フィリピ2:6では「等しい(イソス)」が使われていますが、何が「等しい」かは明らかではなく、しかも御子キリストは、父なる神と「等しい」ことに固守しなかったのだから根拠聖句にはならないと思います。

全ての食べ物が清められたことについて

投稿者:
sonar_fisx
投稿日:
2015年04月13日 14時44分08秒

使徒10:9-28なのですが、ペテロが空腹の時の出来事で、神が清めたものを汚れていると呼んではならないと幻がペテロに言っていますが、その後、28節で、神は何人を汚れていると呼ぶべきではないことをお示しになりましたとペテロは言っていますが、これは人の事ではなくて食べ物を神が清めたことをペテロは理解できていないんじゃないでしょうか?なぜそう思うかというと、12、13節で生き物をほふって食べなさと書いてありますが、14節でペテロはいまだかつて汚れたものは食べたことが無いと言っているのでこの幻の意味が全ての人は清いという意味なのであれば律法で禁じられた食べ物は禁じられたままということになってしまいます。でもそうすると、マルコ7:19でイエスが全ての食べ物を清めたのであるというのはどうなるんのでしょうか。ここも全ての人が清いと言う意味なんでしょうか。18節から23節までを通して読むと、口に入る物では汚れない、口から害になる推論が出るから全ての食べ物は清いのだと言っているので、このこと事態が、ペテロから害になる推論が出ている証明になってしまっているのですがどうなってるんでしょうか。
この口から入る物と出るものについての例えを言うに至った経緯がマルコ7の5節から読むと、神の掟を押しのけて人間の命令を教理として教えることについて言い方を変えて口から害になる推論が出るのだと言っているのでここは絶対にペテロは食べ物をイエスが清めたことを理解していなければいけないと思うんです。ほふって食べなさいという意味が全ての人が清いというなら、巧妙にも神の掟を押しのけて人間の教理を教えるをペテロ自ら証明してしまっているとしか読めないのです。どうなってるんでしょうか。

御返答感謝

投稿者:
匿名
投稿日:
2015年03月21日 22時52分08秒

御返答を感謝致します。キリスト改革派教会の信徒になった以上は、この教会の規則を守らないといけないということはわかりました。他の教派の場合でも同じなんですね。当分、私は隠れキリシタンならぬ隠れユニテリアンとして過ごさねばならないようです。牧師先生に打ち明ける勇気は今のところありません。どうしたことか、ある時から聖書を読んでいて、どうしてもイエスさまを神さまとは別だと感じるようになったのです。特に第一テモテ2章5節の「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」というみ言葉が決定的でした。神さまは唯一です。イエスさまも神さまなら唯一ではなくなります。イエスさまは神さまと人間との中間におられるお方です。だから「まことの神でありまことの人」でもあるといわれるのですが、本当は「神ではないが人でもない」と否定的に言うべきだと思います。言わば、天使のような存在とでもいうべきでしょうか。人の子って超人のような存在だそうですね。それに、イエスさまが神さまだったなら、「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。」(ヨハネによる福音書8章54節)とか、「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」と告げなさい。』」(同、20章17節)などとはおっしゃらなかったことでしょう。それが自然な見方です。弟子たちにとって神さまはイエスさまではなく、イエスさまご自身が「父」と呼んだお方であることが明示されています。さらにイエスさまは、「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」(同、14章28節)と言って、「神=父」はご自分より上位であることを説き明かしておられます。これが私たち無学な信徒が聖書を普通に読んで素直に感じ取ることであり、それが真実だと思います。神学者の先生方は難しく考えすぎていると思います。どうして、イエスさまと(父なる)神さまとを対等だと信じることができましょう?その必要もありませんよね、聖書は全体としてイエスさまが(父なる)神さまに従属しておられることを証言しているからです。逆に、イエスさまを神さまとして語っている箇所もあるにはありますが、極めて少数であり、圧倒的多数は父なる神さまこそは唯一の神であり、子なるイエスさまもこの神さまに従っておられるということを証言しています(第一コリント3:23、8:6、11:3、15:28他)。どうして、この多数証言を軽視して少数証言をもとに、三位一体などの教義を構築する必要があったのでしょうか?そしてその必要は時代的制約によるものであり、現代ではもはや不要ではないのでしょうか?

「匿名」さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年03月19日 14時51分01秒

「匿名」さんのご指摘のとおり、私たちがその流れをくんでいるカルヴァンが、『三位一体論の誤謬』という本を記したセルヴェトスを異端者として焚刑に処すことに関わった事実が、残念ながら、あります。4世紀以来、教会と国家が結びつき、国家権力による異端処罰が行われてきてしまいました。それは宗教改革が起こった16世紀にもまだ続いていました。この結合の鎖は宗教改革によっても断ち切られず、カルヴァンはこの時代のやり方で対処してしまいました。これは良心の咎めを覚える出来事です。のちに、カルヴァンの流れをくむある人々は償罪の記念碑を建て、次のような碑文を刻みました。
「我らの偉大なる改革者カルヴァンの忠実なまた心からなる追従者、われらは、
とはいえ、彼の時代の誤謬であったところの誤謬を有罪とし、
また宗教改革の真の原理にしたがって、良心の自由に固く立ち、
1903年10月27日、このmonument expiatoire(償罪碑)をたてた」。
(訳文は田中剛二『カルヴァン その人と思想』にあるものを参考にしました。)

日本キリスト改革派教会が採用している『ウェストミンスター信仰告白』は17世紀半ばに記されたものですが、そこまで時代がくだってもなお、「すべての冒とくと異端がはばまれるため、(中略)国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である」としていました(23章)。このような教会と国家の結合を含む章句を削除し、改訂が加えられたのは、1788年になってからでした。今の条文では「どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきでない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」となっています。

「いろんな神の見方や信じ方があってもよいのではないでしょうか?」という点については、実際、今、いろいろな宗教が「あり」、キリスト教にもたくさんの教派が「あります」。キリスト教教理についての議論は、聖書に基づいて、真理を求めて行われていきます。「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか」(ヨブ11:7)という御言葉もあるように、これは終わることのない営みです。この議論が、純粋に真理を求める営みでありつづけることができればよいのですが、異なる説が出てくると、いつしか相手を攻撃することにすり替わってしまいます。神学者や牧師は、その罪に陥らないように、祈りつつこれをなすことが求められていると思います。信じる側・救いを求める側のことを申しますと、どこから入るか、どこにとどまるかは全く自由だと思います。但し、いったんその教派・教会に属したならば、その教派に加入するときになした「誓約」に違反するようなことを言ったり・したりしますと問題になる、ということは、共同体のルールとしてご理解いただけたら、と思います。

一つの疑問

投稿者:
匿名
投稿日:
2015年03月17日 15時29分37秒

ヨアブさんとMegさんの議論の経過をみていました。言語についてはあまり関心ありませんが、一つだけひっかかったことがあります。それはMegさんの返信にある「『まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた』という順序ではない、ということです。また、私たちの信じている神は、教理で固定化されるようなお方ではなく、『今も生きて働いておられる方』である」云々という結論部分です。
だったら、なぜキリスト教は、三位一体などの教義を信じない者は異端だと言って排除してきたのですか?火あぶりにして殺された人もあります。神が教理で固定されていないなら、いろんな神の見方や信じ方があってもよいのではないでしょうか?それを一つに固定したことで争いも起きてきたのではないでしょうか?
キリスト教として一致すべきところが当然、あるべきでしょうが、それは三位一体のような教義でなければならないのでしょうか?教義だとしても、もっと幅のあるものでもよいのではないでしょうか?

お手数をおかけしました。

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年03月14日 22時41分43秒

まことにお手数をおかえし、詳しいご回答に感謝申し上げます。私がこの掲示板で提起した問題というのは、私たち一般信徒は難しい神学のこと、ましてや聖書言語学のことには精通していないので、牧師先生方がブログや御著書で発信しておられることに多大な影響を受けるわけです。だからこそ、牧師先生方は責任をもって書いてほしいのです。その点でキリスト改革派教会の先生方は私個人は信用しているわけですが、それ以外の教派の先生方で、十分な学問的裏付けもないのに教義を聖書に読み込んで、不確かな説をまことしやかに語る人もおられると聞きます。「エハド」についても、旧約聖書における用例だけを調べても、本当に「多」を包含する「一」といった意味を持つと言えるかどうかは大いに疑問です。「三」つの位格を包み込む「一」を意味するなどというのはそれこそ教理に合わせた解釈ではないかと疑われても仕方ないでしょう。ふつうは「エハド」は「(唯)一」という意味だと記されているからです。実際、私は旧約聖書学の先生方にもこの点を質問してみましたが、どなたも水草先生の説明には同意なさいませんでした。ご指摘のとおり、「『まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた』という順序ではない」のに、これが逆転して、三位一体の教理を聖書的に根拠づけるために、一般信徒にはよくわからないヘブライ語の知識などを用いて、さも聖書が「三位一体」を明示しているかの如く説明するわけです。しかしこの点はいかに正統的立場の教会に属す信徒であっても慎重でなければならないと思っています。このような態度がいつしか教理を異端審問のための踏み絵のようにして、イスラム教やユダヤ教など他宗教への偏見を助長することにもつながるおそれがあると思うからです。現代は多様性を尊重する趨勢になっていると思います。特に宗教対立が大きな問題となっている現状ではなおさらでしょう。
私は水草先生よりもむしろ、ウィリアム・ウッド先生の御著書での「エハド」についての書き方の方に問題を感じています。学問的根拠が極めて希薄に感じるからです。「三位一体」という教理は尊重するものの、それとこれとはまた別だと思います。学問的には中立公平であるべきだと思います。その点で私は、聖書の言語によって三位一体の教理を根拠づけることはできないのであり、教理の正当性の根拠はそのような客観的なレベルではなく各人の信仰にのみ存するのではないかと思う次第です。そして牧師先生方は学問に対してもっと誠実かつ厳密な姿勢で臨んでほしいと思います。いい加減な知識を本などに書いて無知な信徒を惑わすようなことは避けてほしいと思います。そういう牧師は、すくなくともキリスト改革派教会にはおられないことはわかっています。他の教派にはいないとはいいきれません。そこに「福音派」の危うさもあると存じます。説教で、けっこういい加減なことを言っているのを見聞きするからです。これでは信徒は迷惑します。神学教育はきちっと受けてから現場に出てほしいものです。

ヨアブさんへ(大変遅くなりました)

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年03月14日 19時39分57秒

「エハド」の件につき、回答が大変遅れまして、申し訳ありませんでした。 前回、ヨアブさんの質問に回答をしてくださった先生が水草先生に問い合わせてくださいました。 ヨアブさんには、水草先生の書かれた文章が「『エハド』の『言語学的』な説明を通して『三位一体の教理』を『根拠づけ』ようとしているかのように思えます」ということでしたね。 水草先生のおっしゃる「言語学的に」の意味は、「旧約聖書での『エハド』の用例をつぶさに調べてみた上で」ということのようです。
ヨアブさんと同じように疑問を持たれた方がいらっしゃるようで、水草先生はご自身のサイトでこの件につき、追記しておられます。ご紹介いただきましたので、ご覧になってみてください。 →http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/touch/20111224/p1#c

誤りかどうか、というご質問についてですが、水草先生は、三位一体の神さまを思いながら聖書をお読みになり、「一」という言葉(原語)について黙想を深めていかれた結果、三位一体論的な要素が見え隠れしている、ということをおっしゃりたかったようですので、それを誤りだと言って完全に否定することはできない、ということです。ただし、「言語学的に」というおっしゃり方で誤解されたのはヨアブさんだけではない、という点を考えますと、水草先生に書き方をもう一工夫していただけるとよいのかもしれません。

しかし、ヨアブさんのあとに、有又屋さんからも、三位一体に関するご質問をいただき、そのご質問とも共通すると思われるのですが、押さえておきたいことは、次のことです。
つまり、「まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた」という順序ではない、ということです。
また、私たちの信じている神は、教理で固定化されるようなお方ではなく、「今も生きて働いておられる方」であるということもふまえつつ、共々に、日々、聖書の言葉に聞くことができたら、と願っています。

御返答ありがとうございます。「エハド」の件は?

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年01月17日 22時31分53秒

御多忙のところ、神学校としては最高水準として名高い神戸改革派神学校の先生に直々に御返答いただき光栄です。心より感謝申し上げます。貴重な学習の機会となりました。私のみならず、このサイトの閲覧者の中にも同様の方々がおられることでしょう。ところで、「エハド」に関する質問にもお答え頂ければ、この掲示板の閲覧者の中で私と同様の疑問を持つ者が救われます。これは素人では判断がつかない、しかし言語学的説明としては軽視できない重要な問題です。本当に「エハド」というヘブライ語が「三位一体」の教理の根拠となるような「複合的」あるいは「多様」な意味を持つ「一」なのでしょうか?お時間が許されます時には、なにとぞ宜しくお願い申し上げます。

ヨアブさんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年01月17日 18時41分15秒

ヨアブさん、
大変お待たせいたしました。
神戸改革派神学校で教理史を教えてくださっている先生より、ご質問についての回答を以下のようにいただきましたので、ご紹介します。
「ややこしくならないように、質問者様の質問内容に限っての論述です。正統的三位一体論の形成過程やさらに本格的な教義学的な解説を必要とされる場合は、別の機会に」とのことです。
よろしくお願いいたします。

---------以下回答文----------

① 旧新約聖書を通じて、聖書の言明は、明確に「主なる神は、お一人である」です。

② 三位一体の教理の一は、ここに基づきます。

③ 質問者様の「三位一体の『一体』は、『父、子、聖霊』の三位格の相互関係を指し、神の内的な統一性を意味するのではないですか」との理解と指摘は、正しいと思います。

④ しかし、同時に、全聖書の啓示する「主なる神の一性」の主張は、単に、数的な意味での排他性としての一性のみならず、根本的に、真の生ける神様の存在の超越性、主権性の告白ですから、「他の神々との外的関係はないのではないですか」とのご質問に関しては、聖書の語る神は、異教の神とは、存在の仕方自体が、まったく異なるという意味での「一性」、独自性の主張が、ここにあると思います。
すなわち、啓示の進展の中で、明らかにされる、三位一体の神の独自の存在のあり方は、すでに、旧約以来の「一性」の中にでも、込められていたと、信仰的、神学的には、語ることが許されると思います。そこから、「唯一の神の『一』と『三位一体の』『一』とは区別されるのではないですか」との問いにも、まず、明快に「そうです」。

そして、「しかし」と以下のような説明を付加して、つなげることが出来ると思います。

⑤ (1)言語学的に、三位一体の神の一性<ミア・ウーシア=同一本質性、神としての本質の唯一性>を本質、実体、存在と理解、訳したとしてもそれが、アリストテレス哲学的意味での存在論としての「一」理解ならば、聖書的三位一体の神論の理解とは、結局、違う神観に至ることになります。
また、(2)神としての本質を共有する三位格間(トレイス・ヒュポスターセイス)の統一的一体性の概念の「一体性」と理解したとしても、聖書の神様は、存在の唯一性と共に、存在の永遠のあり方が(このこと自体が、唯一の神を意味するのですが)、互いの位格間で、本質を共有するがゆえに、その本質を「他の位格を前提とする」「愛」と語ることが出来る神様です。生きた愛と永遠の命の交わりをお与え下さる神は、お一人であると共に、その存在のあり方が、独自な三位格間の統一的愛の交わり(対他的起源関係においても、相互内在性においても)に生きておられる、という意味では、こちらの方の「一体性」もやはり、旧約以来の、「一性」の主張と矛盾せず、かえって、聖書の神の独自性の信仰的、神学的理解においては、結び合っていると解釈できます。

⑥ その意味では、他の神々とは、完全に区別される聖書の語る神の唯一性は、その存在の「一性」と共に、存在のあり方の独自性としての「三位一体性」も同時に、意味しているということが出来るのではないでしょうか。

結論として、質問者様の「神の『一性』と三位一体の神の『一体性』とは区別されるのではないですか」という問いと指摘は、正しいものであると同時に、以上のような神学的、いや、信仰告白的頌栄的省察の下に、告白されて来た内容に即して語るならば、さらなる含蓄を帯びて、深い理解に至るのではないでしょうか。

⑦ これは、教理史的発展の途上で生じた信仰告白的、教義的内容を、質問者の質問に即して簡略化したお答えに過ぎませんので、本格的に学びたい方には、国際的にも定評のある有益な神学書などを、今後、ご紹介することも出来ます。

----------回答文ここまで---------