喜びの音色

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聖書の言葉

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

新約聖書 マルコによる福音書 1章14~15節

藤井真によるメッセージ

聖書には神の福音が記されています。「福音」というのは、「喜びの知らせ」という意味です。それを聞いたらいつでも嬉しくなるような言葉です。私が信仰告白をしてクリスチャンになったのは、今から12年前(1997年)のクリスマスの時でした。私はクリスチャンになることを、楽しみにしながら準備をしていました。信仰告白の準備をしていた時に、ある先生から「クリスチャンになると、生きることが喜びになるよ」と聞いていたからです。それも、悲しいことがあったとしても、消えることがない不思議な喜びがあるというのです。その時に、私は辛い状況に置かれていたわけではないのですが、「生きることが喜びになる」という言葉を聞いて、本当に心躍らせていたことを思い起こします。その時から、今に至るまで喜びという言葉を心に刻んで歩んできました。

少し話は変わりますが、私が牧師になってから、クリスチャンの詩人に星野富弘さんのことをよく思い出しょうになりました。私が仕える教会員の中で、星野さんのことを好きな方が何人かおられるということもありますが、それだけではなくて、教会員と共に生き、聖書の言葉を語る中で、私たちの喜びとは何だろうかということをいつも考えさせられるからです。その時に、星野さんのあるエピソードをよく思い起こすのです。星野さんは、中学校の体育の先生をしておられた方ですが、授業の中で体操の指導中に不慮の事故に遭われ、手足の自由を失ってしまいました。しかし、その後キリストに出会い、クリスチャンになられ、今は詩人として活躍されている方です。私がこの星野さんのことを知ったのは、今から18年前(1991年)、まだ小学校4年生の時です。当時、担任の先生がクリスチャンの方で、星野さんの話をよくしてくださったのです。しかも、星野さんの話をするときは、いつも同じ話をしてくださいました。「また同じ話をしているなあ」と内心思いながらも、何度聞いても飽きることはありませんでした。それが「鈴の鳴る道」というお話です。

星野さんは、普段、首だけで動かすことのできる電動車椅子に乗って、よく散歩に出掛けられたそうです。しかしどうしても避けて通りたい道があったそうです。それは「でこぼこ道」です。舗装された道路でも、車椅子に乗ってみると至るところに段差があり、平らだと思っていた所でも、横切るのが怖いほど傾いているというのです。でこぼこ道を通る時、その震動が脳にまで響くのです。それが嫌で嫌でたまらなかったのです。しかし、散歩をする時、どうしてもその道を通らなければならなかったのです。その度に嫌な思いをしたのです。

しかし、ある時からどうしても通りたくなかったでこぼこ道を通ることが、ひとつの楽しみとなったと言います。それは、星野さんがある人から小さな鈴を貰ったことから始まります。星野さんは、手足が不自由ですから、自分で鈴の音を鳴り響かせることはできません。そこで、車椅子に貰った鈴をぶら下げたのです。ある日、鈴をぶら下げた車椅子で散歩に出かけます。すると、いつものようにでこぼこ道にさしかかります。「嫌だなあ」と思いながらも、車椅子のレバーを慎重に操作しながら、通り抜けようとしました。すると、車椅子につけた鈴が「チリーン」と鳴ったのです。心にしみるような澄んだ音色だったそうです。星野さんはもう一度その音色が聞きたくて、もう一度来た道を引き返して、でこぼこ道の上を通ります。「チリーン、チリーン」小さいけれど、本当に素敵な音色が鳴り響いたのです。そして、その日から道のでこぼこを通るのが好きになったと星野さんは言います。

当時、10歳の少年であった私は、この話を聞く度に「チリーン」と鳴る鈴の音色と星野さんの満面の笑顔を心の中で思い浮かべていました。すると私までも思わず「ニコッ」となってしまうのです。何度聞いても「ニコッ」となれるというのは本当に嬉しいことです。だから、いつも喜んでこの話を聞くことができたのです。

星野さんは、『鈴の鳴る道』という本の中で、次のように言っています。

長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。しかし、小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちをとても和やかにしてくれるようになったのである。鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。”その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることはなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。美しく鳴らし続けている人もいるだろうし、閉ざされた心の奥に、押さえこんでしまっている人もいるだろう。私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。

私たちも通りたくない所を通らなければいけないこともあります。すべてが自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。けれども、そのような歩みの中でこそ、喜びの音色が聞こえます。そして、その音色を聴きながら、嫌だなぁと思っていた道を進んで行くことができるのです。しかも、「嫌だなぁ」と思って歩くのではないのです。そこでしか聞こえない音を聴きながら、喜んで生きる幸いの中に神さまは招いてくださるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスがいつも語られていた喜びの言葉です。愛と喜びそのもののお方である主イエスが、既にあなたのところに来てくださっています。そして、いつも「わたしと一緒に、神のもとに帰ろう」と招いてくださいます。この主の声に応えるとき、昨日とは違う新しい喜びの日々が始まるのです。

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