ユーモアに生きよう

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聖書の言葉

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

新約聖書 マルコによる福音書 7章27,28節

藤井真によるメッセージ

ヨシタケシンスケさんが書いた「ふまんがあります」という絵本があります。子どもがお父さんに対して、「わたしはいまおこっている」「おとなはいろいろとズルいとおもう。ちゃんともんくをいって、ズルいのをやめてもらおう」。そう言って、抱いている不満を次から次へ述べていきます。例えばこんな不満です。「どうしておとなはよるおそくまでおきているのに、こどもだけはやくねなくちゃいけないの?」皆さんならどう答えるでしょうか。色んな答え方ができるかもしれませんね。お父さんはこう答えます。「…ああ…それはねえ…おおきなこえじゃいえないんだけどね…」「じつは、つぎのクリスマスのために、サンタさんからたのまれたちょうさいんが『よるはやくねるこかどうか』を、なんかいもしらべにくるんだよ。」

子どもは本当かな?と思いながら、「不満がまだあるんだ」と言って、また新たな不満を述べるのです。「じゃあ、どうして『おとなだから』ってウインナー2ほんもたべていいの?」お父さんは答えます。「おとなのなかにはこどもがはいっているから、おとなのパパと子どものパパに、ウインナーは、いっぽんずつなんだよ。」「どうしてゆびずもうをなんかいやっても、パパのかちなの?」「『こどもにまけたら、もういちどこどもにもどってやりなおし』というルールがあるから、パパもひっしなんだよ。」

まあ、こんなやりとりが続くわけです。お父さんは、私たちが想像するような答え、いわゆる、「正論」と言えるような答えを一切返さないのです。子どもの怒りや不満を受け止めつつも、ふざけていると言うか、たいへん面白く、ユーモアな答えを次々に出していくわけですね。お父さんの言葉を聞きながら、次第にどこか怒りの感情が冷めていき、ついには笑ってしまうような、そんな思いがしてきます。

聖書の中にこういう珍しい話があります。イエス・キリストがある女性に打ち負かされた、論破されたというお話です。イエス様ほど言葉に力がある方は他におられません。でもそのイエス様が一人の女性によって論破されてしまいました。その女性の娘が汚れた霊にとりつかれて苦しんでいたのです。この女性はイエス様に娘を救ってほしいと必死に願い、自分の住む町にやって来たイエス様の足もとにひれ伏します。普通でしたら、ここでイエス様はこの女性の願いに耳を傾けて、娘を救ってあげるはずです。でもこの時はなぜか救おうとはなさいませんでした。

なぜ救ってあげなかったのでしょうか。イエス様はこうおっしゃいました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」「子供」というのは神の民イスラエルのことです。「小犬」というのは異邦人・外国人のことです。異邦人というのは当時救いから遠い人々だと見なされていました。そして、実はこの女性も異邦人だったのです。イエス様はここで何を言いたかったかと言うと、まずわたしはイスラエルの民を救わなければいけない。だからその救いを異邦人に先にあげるわけにはいかないということです。厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、まずどの民よりも弱く罪深いイスラエルの民を救い、そこから救いの恵みが世界に広がっていく。これが神様の救いのご計画でした。だから、わたしはまずイスラエルの民のところに行くとおっしゃったのです。

女の人はたいへんがっかりしたかもしれません。苦しんでいる者を救ってくれない救い主なんて救い主の名に値しない。そう言って、イエス様のもとを離れ去っても不思議ではありません。それに、いくらなんでも、自分たちのことを「犬」と言われたら誰だって傷つきます。でもこの女性はイエス様の言葉の中に救いの光を見出しました。それにしても、「娘を救うことはしない」と言われて、さらに「犬」呼ばわりまでされて、いったいどこに希望があるというのでしょうか。こういう状況で心を柔らかくしたり、ユーモアなことをなど言えないですよね。普通は。

でもこの女性は自分が「犬」と呼ばれたことに希望を見出しました。犬は犬でも、イエス様がおっしゃったのは「小犬」なのです。女性はここに注目しました。小犬というのはペットで買われている犬のことです。ですから、いつも主人といることができます。家族と同じとまではいかなくてもちゃんと食事も出してもらえます。食卓で子どもが下に落としたパン屑を食べることもあるでしょう。でもそれをいちいち怒る主人はいません。この女性は言います。「イエス様、あなたのおっしゃるとおり、わたしは小犬です。でも神様の救いの恵みというのは、異邦人である私のところに及ぶほど豊かですよね。その救いのおこぼれをいただくだけで私たちは十分救われます。あなたはそのおこぼれまで奪うようなお方ではありませんよね?そうじゃないですか?イエス様!」イエス様はこの女性の言葉に圧倒されました。「それほど言うなら、よろしい。」そう言って、娘を救ってくださったのです。

苦難を経験する時、不満で心がいっぱいになる時、つい私たちの心は堅くなります。顔までこわばってしまいます。でも神様の救いの豊かさを知る人は、ゆとりを持てない状況の中で、なお心を柔らかくして物事を受け止めることができるのだと思います。ここで何を見つめればいいのか、何を聞けばいいのが分かるようになるのです。上を向いて生きることも大事ですが、下を向くことがあったとしても「ここにパン屑が落ちている」「だから私はここで生きていける」という恵みを見出すことができます。ぜひこのラジオで、また礼拝の中で神様の言葉を聞き続けてください。そこで私たちは新しく変わることができます。

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