走っても疲れない

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聖書の言葉

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章1〜3節

藤井真によるメッセージ

私たちの人生は色んなものに譬えられます。なかでも、「人生はマラソンだ」などと聞くと格好いいかもしれませんね。聖書も私たちの人生や信仰生活を走ることに譬えます。でもよく考えると、走ることは楽なことではありません。正直しんどいですよね。ゆとりをもって走ることができるまでには、たくさんの練習が必要です。その練習もまたたいへんです。そのように、私たちの人生にはマラソンのように忍耐しなければいけないことがたくさんあります。でも、この忍耐こそ最後まで走り抜くための秘訣なのです。

では、どうしたら忍耐することができるでしょうか。それは自分が何のために生きているのか。どこに向かって走っているのか。これらを理解することと深く関わってくると思うのです。何の目的もなく、どこがゴールかも分からずに、むやみやたらに走っていても疲れるだけ、虚しいだけではないでしょうか。このためなら、自分の人生を献げることができるというものを見出すことができたなら、忍耐して走ることができると思うのです。

私たちはどこに向かって走るべきなのでしょうか。何のために走るべきなのでしょうか。

先ほどお読みした聖書の言葉の中に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉がありました。大事なのは最初から最後までイエス・キリストから目を反らすことなく、主イエスを真っ直ぐ見つめて走ることだというのです。主が私たちを導いてくださり、行くべきコースを踏み外すことがないように足跡を残してくださっていますから、安心してゴールまで走り抜くことができます。そのイエス様を信頼し、お委ねして救いの完成というゴールを目指します。

イエス・キリストもまた地上の生涯を最後まで走り抜かれたお方です。主イエスも忍耐を知っておられる方です。その忍耐の頂点にあるものが十字架です。主イエスは、私たちの足に絡みついている罪を取り除くために十字架についてくださいました。私たちは色んな重荷に苦しめられることがありますが、問題はその重荷があまりにも大きく自分を支配してしまって、本当に見つめるべき主イエスが見えなくなってしまうことです。でも、主イエスだけは私たちをいつも見つめていてくださるのです。主が忍耐してくださり、最後には十字架についてくださいました。そこまでして、私たちを罪の重荷から解放し、自由に、軽やかに生きることができるものとしてくださいました。それは主イエスが私たちを愛してくださっているからこそできることです。人間が自分勝手をして、神様に背中を向けて反抗しても、主イエスは私たちのために、最後まで愛を貫いてくださいます。そして、これからも愛し続けてくださるのです。

たとえ、走る足を休めてしまったり、歩いてしまったりすることがあっても、私たちを責めるお方ではありません。毎週、教会でささげている礼拝は、どちらかと言うと、安心して神様のもとで憩っているというイメージのほうが強いかもしれませんね。主イエスも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とおっしゃっています。マラソンで譬えれば、給水地点のようなことでしょうか。でも、その礼拝においてゆっくり休んでいても、そこに集っている人たちは走っているのです。どういうことかと申しますと、礼拝こそ、主イエスを見つめる時でもあるからです。

主イエスの願いは、聖書の言葉にもありましたように、私たちが「気力を失い疲れ果ててしまわない」ことです。忍耐強く走るのですけれども、そこで疲れ果ててしまっては何の意味もありません。ということは、忍耐しつつも、気力を失わない生き方、疲れない生き方があるということです。本当に不思議です。そんな生き方があるのだろうかと思います。でも、十字架についてくださった主イエスを見つめ、主イエスを信頼して走り出す時に、これまで考えたことも経験したこともなかった素晴らしい生き方へと導かれるのです。

疲れることも、渇くこともあるのですけれども、その度に、主イエスからいただくいのちの御言葉は魂の奥底にまで染み渡ります。「ああ、生き返った!」という新鮮な思いで、もう一度信仰のレースを走り出すことができます。マラソンに譬えられる私たちの人生のゴールには救いがあり、大きな喜びがあります。その喜びに今支えられながら、主イエスと共に最後まで望みをもって走ることができる。それが私たちの生きる喜びなのです。

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