扉を開けよう

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聖書の言葉

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章20節

藤井真によるメッセージ

日本のキリスト者の詩人に水野源三という人がいます。「瞬きの詩人」とも呼ばれました。小学生の時に赤痢にかかり、脳性麻痺を併発し、体の自由を奪われました。幼くして、若くして将来の希望を失ってしまったのです。話すこともできませんから、自分の意志を誰かに伝えることができません。けれども、目をつむることはできる。瞬きはできるのです。「水がほしいか?」と聞かれたら、水野少年は目をつむって、自分の意志を伝えます。ひらがなの50音が記された表を家族の方が作成いたしまして、行と文字を一つずつ順に指さしていきます。水野少年は自分の伝えたい言葉・その文字のところに来ると、瞬きをして、一文字一文字、自分の意志を伝えていったというのです。やがて、短歌や俳句、詩を作ることができるようになりました。水野さんにとっても、親や家族にとっても根気のいる作業でしたが、それを乗り越えて、人々の心に訴える美しい作品がたくさん生まれました。

水野さんは、最初、病のゆえに深い絶望の中にいましたが、ある牧師との出会いがきっかけで信仰へと導かれていきます。母親が毎日朗読する聖書の御言葉をとおして、生ける主イエス・キリストに触れ、まことのいのちの道へ、救いの道へと導かれたのです。

その水野さんが次のような詩を残しています。「あの日あの時」という詩です。

あの日あの時に

戸の外に立ちたもう

主イエス様の

御声をきかなかったら

戸をあけなかったら

おむかえしなかったら

私は今どうなったか

悲しみのうちにあって

御救いの喜びを

知らなかった

最初にお読みした聖書の言葉を思い起こさせるような詩です。イエス・キリストと出会い、救われた喜びを知る時に、同時にそこで知る思いというのは、いつもキリストが私の心の戸を、魂の扉をたたき続けてくださったのだなあということです。悲しみの時も、恐れに捕らわれていた時も、望みを見出せなかった時も、主イエスは諦めることなく戸をたたき続けてくださった。このような私がイエス・キリストを救い主として受け入れ、キリストと共にある幸いに生きることができるために!

信じるというのは、私たちが熱心に神様を求め続け、探し続けること。キリストの御声を聞き続け、ついに扉を自分の手で開け、自分の中に主イエスをお迎えすることができた。そういう部分もあるかもしれません。しかしそれに先立って、またそれにも勝って主イエスが戸をたたき続けてくださらなければ、自分の手で戸を開けるということさえもできなかったということです。もしキリストが私のことを諦めてどこかに行ってしまわれたならば、自分はどうなってしまっていたのか。それは水野さんが言うように、悲しみに中に居続ける他なかったのです。しかし、キリストはどのような時も、私たちの心の戸をたたき続けておられたのです。神様のことなんか考えてもいかなった時、考えたくもなかった時でさえも、キリストは戸口に立ち、御言葉を語り続けてくださったのです。そして、今も語り続けてくださるのです。あなたを救いたいと願っておられるからです。

また、戸の外に立つイエス・キリストは、別の言い方をすると、私たちの家を訪ねる訪問販売員でもあられます。人は誰でも豊かに生きたいと願うものですが、何によって豊かになることができるかを知りません。喜びの時だけではなく、苦難の時においても、死を前にした時も、なお私は豊かであると言い得るものが何であるかを実は知らないのです。だから主イエスはこのようにおっしゃるのです。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(黙示録3:18)火で精錬された金、白い衣、目に塗る薬。これらは町のどこかのお店に行けば、すぐにでも見つけることができると思うかもしれません。

でも主イエスは「わたしから買うがよい」とおっしゃるのです。主イエスからしかいただくことができないもの、主のもとに行かないと手にすることができない豊かさがあるからです。そして、「わたしから買うがよい」とおっしゃるのですけれども、それは私たちが何かものすごい高い代価を支払わないと手にすることができないというのではなくて、本当は主イエスが恵みによって、つまり、まったく無料で私たちに与えられるものなのです。それが「救い」ということなのです。神の御子であられるイエス様は、私たちを神様のもとに迎え入れるために、ご自分の一番高価なもの、つまり、いのちそのものを十字架の上で献げて、私たちをご自分のものとしてくださいました。

自分のまことの価値や真の豊かさというのは、自分の姿ばかり見ていても分かりませんし、誰かと比べたところで見えてくるような小さなものでもないのです。主イエスからしかいただくことができない目薬によって、見るべきものを見るまなざしが与えられ、何よりもイエス・キリストそのお方そのものを見つめる時に、初めて自分の豊かさに気づかされます。自分の過去も現在も、そして、これからのことについても、新しく、また希望に満ちたまなざしで見ることができます。新しいこの一年、主イエス・キリストがあなたのもとを訪ねてくださいますように。心の戸をたたき続けておられる主イエスの愛が、あなたの歩みを守ってくださいますように。

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