受けるよりも与えるほうが幸いである

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聖書の言葉

あなたがたもこのように働いて弱いものを助けるように、また、主イエスご自身が「受けるよりも与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしは身をもって示してきました。

新約聖書 使徒言行録 20章35節

禰津省一によるメッセージ

冬の寒さの中、ラジオをお聞きくださっている皆さま、お変わりなくお過ごしでしょうか。今朝は、初代のキリスト教会の伝道のために大きな働きをした使徒パウロの有名なみ言葉に心を向けてみましょう。

「受けるよりは与える方が幸いである」。これは、パウロが最後のエルサレム行きを前にして、エフェソという町の教会役員たちに向かって語った言葉です。「決別説教」と言われる部分の最後に出てきます。今回のエルサレム行きには投獄と苦難が待ち受けており、命の危険があることを、パウロはよくわかっていました。そういう中で、エフェソの教会の役員たちに、これは自分自身が実践してきたことであると前置きして遺言のように語りました。その最後に「受けるよりも与える方が幸いである」という主イエス様の御言葉を思い出しなさいと勧めたのです。パウロの言葉なのですが、実はイエス・キリストの言葉として、ここに記されています。

パウロが、ここで「思い出しなさい」と言っていることに注目したいと思います。この主イエス様の言葉は、あなたがたもすでに聞いている言葉のはずだ、この言葉を思い出しなさいというのです。

新約聖書の中で、主イエス様のご生涯と教えを記録しているのはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書です。しかし、これらの福音書の中に、この主イエス様の言葉は直接には記されていません。おそらく初代教会の中で、忘れてはならない主イエス様の御言葉として伝えられてきたものでしょう。それをあなたがたも思い出すようにと言うのです。

そうであるならば、これは、遠い昔のエフェソ教会の人々だけでなく、現代のわたしたちもまた、心に刻んで、いつも思い出すべき言葉であると思います。

わたしたちは「受けること」と「与えること」のどちらのほうを幸せだと思うでしょうか。常識的に考えるなら、まずは「受けること、もらうこと」ではないかと思います。人から好意を受ける、おいしいものを頂く、ときには豪華な景品が当たることをわたしたちは願います。人からだけでなく、神さまからも沢山のものを頂きたいと願います。

わたしたちが祈り願うことは、健康であったり、平安な生活であったり、さらに物質的な豊かさや人間関係が良くなることです。それらは間違いなく、わたしたちに幸いをもたらします。パウロはそれを否定しません。けれども、それよりももっと幸いなことがある、それが「与えること」だというのです。

人に与えるほど沢山持っていなければ与えることはできないはずだ、だから、与える人の方が幸いだというのでしょうか。あるいは、人に与えるならきっとお返しをもらえる、たくさん与えるほど恩を売ることができるし、最後には自分に返ってくるから幸いだというのでしょうか。

決してそういうことではありません。それでは、結局は受ける幸いを追求していることになります。そうではなく、与えることそれ自体に幸いがあるというのです。

今のわたしには、与えることが出来るものは何もないという方もおられるかも知れません。けれども、ほんの少しの時間を割いて誰かのために祈ることは出来ますし、何か小さなことをすることもできると思います。実は、ものがあふれ豊かになればなるほど、わたしたちは、ますますそれに縛られてしまって、それを失うことに恐れを覚え、欲望は果てしなく深まって行きます。イエス・キリストは、そのようなわたしたちが自由になることを願っておられます。

自分のことだけではなく、他の人のことに関心を持つこと、助けること、分かち合うこと、主イエス様は、それをわたしたちに求めておられます。この主イエス様の教えをいつも思い出すことが幸いな人生の道です。

このことは、わたしたちの生活、人生にとって根本的なことです。それは、どこまで行っても自分が中心の人生から、神さまが求めておられることに従うという神中心の人生への大転換なのです。

「受けるより与える方がさいわいである」という主イエスの御言葉を忘れない人生、それが幸いな人生の秘訣です。

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