石楠花色にたそがれる

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聖書の言葉

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

新約聖書 ヤコブの手紙 5章7,8節

禰津省一によるメッセージ

次第に暑さが厳しくなってきましたが、ラジオをお聞きくださっている皆さま、お変わりなくお過ごしでしょうか。ちょうど二か月前、まだ朝晩涼しさの残る4月の中頃、キリストへの時間の6月の放送をお願いしますと担当の方から頼まれました。これは先週もお話ししましたことですが、「放送は6月か、ああ、もう夏が近い頃だな」と思ったのと同時に、わたしの心の中に一つのメロディーが浮かんできたのです。

それは「夏が来れば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空」という歌詞から始まる「夏の思い出」という有名な曲でした。さわやかな高原の夏、広大な湿地帯に咲き誇る白い水芭蕉の花、そんな美しい情景が、あの忘れられないメロディーと共に思い出されました。

冒頭にお聞きいただいた聖書の言葉は、からからに乾いた畑に水をまきながら秋の雨、春の雨を待っている農夫の心を一つのたとえとしています。困難に出会っている信仰者、あるいは迫害を受けている信仰者に対して「主が来られるとき」まで、忍耐して待つことを勧めています。

聖書の舞台であるパレスチナに生きる人々も、季節の移り変わりの中で春や秋の雨の季節を待ちながら生活していました。「夏の思い出」と言う歌には、水芭蕉や石楠花の花が登場します。湿気の多い平地の夏とは違う高原のさわやかさが歌われています。はっきりした春夏秋冬があるということは、日本という国の素晴らしいところでしょう。さらに、日本列島は山が険しく南北に長いので、寒帯から亜熱帯まで、実に多彩な自然の営みを見ることができます。

聖書の中には、神様の恵みや厳しさを季節の移り変わりや自然の営みに関わる言葉によって指し示すみ言葉が多くあります。当然日本とは大きく違う、大陸の気候です。砂漠とオアシス、雨季と乾季といった独特の季節の営みを背景としています。けれども、季節が移りゆくことを知っている人々が、苦しい時も悲しい時も、やがて来る幸いな時を待ちながら過ごす知恵を得ていることは変わりがありません。

「夏の思い出」という歌の歌詞の中で、いわば主役となっているのは水芭蕉です。その後に、もう一つ別の花の名前が登場します。「石楠花(しゃくなげ)色にたそがれる」と歌われている石楠花です。石楠花が尾瀬に咲いているというわけではなく、夕刻の尾瀬の空が、同じ夏の季節を彩る花である石楠花のように赤紫色に輝いているというのです。暑い夏の太陽も夕暮れが来れば沈んでゆきます。青かった空は石楠花色にたそがれてゆき、やがて夜が訪れるでしょう。

冒頭の聖書の言葉は、わたしたちに待つことを勧めています。ただ待っているというのではなく、望みを抱いて待つことを勧めます。新約聖書の言葉であるギリシャ語の「忍耐する」という言葉は、「希望を持つ」とか「望みを抱く」という意味も併せ持っています。諦めてしまうとか、苦痛を我慢するという意味ではないのです。諦めないこと、困難の中でも望みを捨てないことを意味しています。

聖書に記されている天地の創り主である神さまのご存在とその恵みを信じる人は、その神さまが独り子であるイエス・キリストを世に送られたことを信じます。そしてイエス・キリストの尊い命が十字架の上にささげられ、この世の罪びとの罪の赦しをもたらしたことを信じます。それだけではありません。さらに、イエス・キリストが復活し、今は天におられること、そしてやがて再びこの世においでになって、新しい天と新しい地をもたらされることをも信じています。

日本では冬が過ぎれば春が来る、やがて夏となります。季節は繰り返されます。パレスチナでは、春と秋には雨が降り、それ以外の季節は雨の降らない乾季となります。農夫たちは畑の水やりに苦労します。けれども、必ず雨が来ることを信じて忍耐するのです。

聖書は、世界のはじまりを語り、また世界の終わりを語っています。世界の終わりは、イエス・キリストにあって、すべてが新しくされる新天新地の到来、究極のハッピーエンドです。イエス・キリストの再臨、主イエスさまが再び来られることを待ちながら、この世の困難を忍耐し希望をもって生きることは素晴らしいことです。教会はいつでも新しい人を歓迎しています。今日の日曜日、近くの教会を訪ねて下さるなら感謝です。

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