「もう最悪っ」と言う前に

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聖書の言葉

あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章17節

常石召一によるメッセージ

先日、うちの子どもが「もう最悪っ」と言いながら帰って来ました。雨に降られて全身が濡れていました。しかし「最悪」と言いながらも、表情はそれほど深刻ではありませんでした。そもそも最悪というのは、最も悪い、それ以上悪いことがない状態です。びしょ濡れになったのは確かに大変なことですが、もっと悪い状況というのはいくらでもあります。子どもも本気でこれが人生で最も悪い状態だなどと思っている訳ではなく、単なる口癖なのです。

考えてみると、「最悪」という言葉は私自身も若い時から結構よく使っています。必ずしも正しい使い方ではない、と思いながらも、何か予想よりも悪いことが起きたりすると、つい「最悪っ」と口にしてしまうのです。言葉には流行り廃りがありますが、この「最悪」という言葉は、世の中で長い間使われ続けているような気がします。反対の言葉である「最高」という言葉よりも、むしろ私たちの日常の感覚にフィットしているのかも知れません。

しかし改めて考えてみたいのですが、「本当に最悪な状態」とは一体どんな状態を指して言うのでしょうか。

世界には内戦状態が長く続いている国があります。大きな災害に見舞われた方々がおられます。報道などを通して、本当に大変な様子を私たちは見聞きします。これ以上に大変なことはないというくらいに過酷な状況に置かれた方々がおられます。それは確かに「最悪」の事態だと言い得るでしょう。

また、私たちは「最悪」という言葉を人に対して使うことがあります。他人の行ないや言葉を批判し、道徳的に間違っているという意味で「あの人最悪」などと言うのです。その思いの背後には、「自分はあの人よりもマシだ」、「あの人よりも真面目に生きている」という優越感を抱きたい思いが潜んでいるように思います。

ところで、聖書には「惨め」という言葉が記されています。先ほどお読みしました聖書の御言葉には、「あなたは、・・・自分が惨めな者、哀れな者、・・・であることが分かっていない」とありました。これは決して「自分とは関係のない別の人」のことが言われている訳ではありません。「あなた自身が惨めな者だ」、「悲惨な状態にある」と言われているのです。そう言われてもなかなかピンとこないかもしれません。今日本は特に戦争をしている訳でもなく、人はそこそこ真面目に暮らしていると思っているものです。けれども聖書で「惨め」というのは、単に過酷な状況におかれている、不幸な状態である、あるいは道徳的に悪い、ということではありません。神様との正しい関係を失っている、本来いるべき所から追放されている状態を言うのです。

聖書では、人間は、やがて訪れる終末の日に全員神様の前に立たせられる、と教えています。そして私たちがしたこと、抱いた思いの一つ一つが、全く正しいお方である神様に問われるのです。神様は、私たちの少しの間違ったことも見逃されることはありません。あの人よりも道徳的にちゃんと生きた、というのは神様の前では何の申し開きにもならないのです。神様の正しさに耐えられない、裁きの前に滅ぼされる。これこそが本当に「最悪」な状態です。

神様との関係を失っている人間には、自分が悲惨であること、最悪な状態であることが自分では分からないのです。どこか「私は満ち足りている」と自己満足している。今日の御言葉にはそのような私たちの状態が描かれています。しかし心のどこかでは、誰もがそれぞれに良心の疼きを覚え、わずかにでも恐れを感じているのではないでしょうか。実は、その恐れは人生全体に暗い影を落としています。そうした状態を神様は「実に悲惨だ」と思っておられるのです。「最悪と言っても良いほど悪い状態である」と見ておられるのです。そして、そのことに本当に心を痛め、何とかそういう状態から救いたいと切実に願っていて下さるのです。

ある人がこう言っておられました。イエス様を救い主として信じた時、何だかとてもホッとした、というのです。神様に赦されたと感じたからです。いくつもの悪いことをした、それが神様によって赦された。それだけではなくて、自分は悪いことをしたと気づいていないこともある、しかし神様はそれをも含めて赦して下さっていると知って、想像以上にホッとしたのです。自分では気が付かない程最悪の状態にある、そんな私たちに神様の赦しのまなざしが注がれています。そのことを知っていただければと思います。

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