倍返せない愛

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聖書の言葉

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章4~8節

長谷部真によるメッセージ

「やられたらやり返す、倍返し」という言葉がブームになったドラマの続編が、再び話題になりました。家族で毎週、楽しみにしていたのですが、ドラマの中でこの「倍返し」という言葉は、攻撃してきた相手に、受けた倍にして仕返しをする、という意味で使われています。そもそもは報復だけを意味する言葉ではなく、贈り物を頂いた場合に「受けた物より多く相手に返す」という、「恩返し」の意味でも使われます。今回のドラマでは、「施されたら施し返す、恩返し」という言葉も話題になりました。これは前作で敵だった役の言葉です。彼は自らの悪事を暴かれ、絶望的な処分が下るはずだったところを、上司の憐れみに救われたのです。今回のドラマで、敵役だった彼は、罪の赦しを受けた者として、恩を受けた者として、恩を施された上司のために、生き生きと立ち振る舞います。

先ほどお読みした御言葉も、信仰者がキリストと出会い、神様から与えられた罪の赦しの大きさを教えます。救われる以前と後、そこには大きな違いがあります。キリスト者に与えられているのは、罪赦された者としての歩みです。

エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロがエフェソの教会の兄弟姉妹に宛てて書かれた手紙です。パウロはこの手紙を、捕らえられた暗い獄中で書いたと言われています。人と会う自由を奪われ、明日生きられるかどうかも分からない中にいました。希望も喜びも見えない、そんな状況にいるとき、私たちの心は沈みます。しかし彼は閉ざされた狭い獄中で、自分の境遇に絶望するのではなく、キリスト・イエスを通して与えられた喜びに生きることを伝えます。自分の罪の負い目に生きるのではなく、キリスト・イエスを通して示された「罪の赦し」という、神様の慈しみを教えるのです。かつて自分の欲望の赴くままに生活し、神様から怒りを受けるべき存在だった私たちが、キリストを通して罪が赦された。それが今朝の御言葉が教えていることです。

皆さんいかがでしょうか。「借りた恩は必ず返すもの」私たちの普通の考え方です。「倍返せない愛」と聞くとき、私たちは大きな負債を負っているように感じるかもしれません。しかし、今朝の御言葉が教える神様の愛は違います。私たちが本来、生まれながらに神様の御前に負っている「罪」という負債を、神様は、キリスト・イエスの十字架の死と復活を通して赦して下さった。私たちが本来、神様に返さなければならない「罪」の負債を、キリスト・イエスが代わりに負ってくださった。私の罪の負い目の重みに苦しむ歩みから、自由にされた。キリストを通して罪赦された者として生きる道が示されているのです。

パウロは教会の兄弟姉妹に、神様から与えられた救いの根拠を示します。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」私たちが何か善行や功績を重ねたから救われたのではない。神様からの一方的な恵み、信仰によって救われた。私たちが善行をいくら積んでも、決して返すことの出来ない、倍返しにすることなど到底出来ないほどの「大きな愛」が、キリスト・イエスを通して示されている、とハッキリと語ります。

神様は私たちに、罪の重荷に苦しむことを求めているのではありません。むしろ、キリスト・イエスを通して、私たちが生まれながらに持つ罪の重荷から、自由にされることを求めておられるのです。キリスト・イエスを前にするとき、私たちは、自分の生活で、どれだけ心の欲するままに生き、聖書の御言葉から離れて歩んでいるか、自分の罪の現実を思い知ります。しかし同時に、自分でどうすることも出来ない私たちの罪の赦しのために、十字架の死と復活の道を歩んでくださったキリストと出会うのです。

私たちの力では決して「倍返せない」ほどの愛を、憐れみ豊かな神は、私たち一人一人に注いでくださいました。キリスト・イエスは私たち一人一人と共に歩んでくださり、罪赦された者としての喜びの道へと導いて下さっています。今日から始まる、ラジオをお聴きの皆さんの新しい1週間の歩みに、主なる神様の惠みが、豊かにありますように。

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