最後に何を味わいますか

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聖書の言葉

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。

新約聖書 ペトロの手紙一 2章1~4節

藤井真によるメッセージ

先日、テレビ番組を見ていましたら、「最後の晩餐」という企画がやっていました。「もし、明日世界が終わるとしたら、最後にあなたは何を食べたいですか?」とインタビューしていくのです。そこであげられていた料理は、めったに食べることができない高級料理ばかりではありません。興味深いことに、おにぎりやみそ汁、焼き魚や肉じゃがなど、日々の生活の中で、口にしていた料理やおふくろの味と呼ばれるものがあげられていました。

ところで、この「最後の晩餐」という企画について、ある人が言っていた言葉が、ふと心に留まりました。「これが最後の食事だと分かっていたら、本当に心から味わって食事をすることなどできないのではないか」。冷静に考えてみたらそのとおりだと思います。この食事が、最後の晩餐になるということは、この食事を食べたら、死んでしまうということです。要するに、「死」を前にして、今晩は何を食べようかなどと呑気なことなど考えることなどできないというのです。

あるいは、私たちは最期の日を、健康な状態で迎えることができる保証は何一つありません。昨年の夏、1年ぶりに祖母の見舞いに行ってきました。2度の脳梗塞を経験し、今はもう体の左部分が麻痺しています。年齢を重ねるほどに、記憶も曖昧になり、耳も遠くなり、話す声も聞き取るのが非常に困難です。そして以前は、ちゃんとした食事を摂ることができたにもかかわらず、今は十分に食事を摂ることができません。栄養が入ったゼリー状のようなものが、ベッドの横に吊るされていて、そこから、その日を生きる栄養を補給しているのです。見ていて、とても胸が詰まるような思いがいたしました。

「生きることは、食べること」と言っても過言でありません。それほど、食事をするというのは、私たちの人生においてなくてはならないものです。そして、食事というのは、料理そのものの美味しさだけではなく、その食事を共にした色んな人たちとのあたたかい思い出もたくさん詰まっていることでしょう。わが子のために、毎日作ってくれたおふくろの味、愛する家族との旅先で食べたあの料理など。だから、多くの人はあたたかい思い出が詰まった食事をし、心から美味しかったと満足して死んでいきたいと願うのではないでしょうか。

さて、今朝も先週に引き続きキリストの弟子でありましたペトロが書いた手紙に記されている御言葉を読みました。この手紙が書かれた時代というのは、ローマ帝国によるキリスト教会への迫害がたいへん激しい時でした。いつ自分の命が奪われるか分からない状況にキリスト者たちは置かれていたのです。ですから、当時洗礼を受けて、キリスト者として生きるということは、命掛けのことでした。毎日毎日がまさに最後の晩餐でした。しかし、キリスト者たちは、心の中だけでイエス・キリストを信じて、表向きは信じていない振りをして、ごまかそうとはしませんでした。生きるにも、死ぬにも、キリストのものとされていることに、深い慰めを覚え、自分がキリストのものとされていることを誇りに思っていたのです。

だから、迫害の時代も礼拝をやめることはありませんでした。家族や信仰の仲間を失ったキリスト者たちは、地下の「カタコンベ」と呼ばれるお墓に集まり、礼拝を捧げたのです。信仰の仲間の遺体が納められた棺の蓋の上に、パンとぶどう酒を置き、キリストのいのち、聖餐に与りました。聖餐で実際に口にするのは、小さなパンとわずかなぶどう酒です。これだけでは、決してお腹が一杯になるわけではありません。それどころか飢えてしまうことでしょう。しかし、キリスト者たちは、この聖餐の食卓にあずかる度に、罪と死に打ち勝ってくださったイエス・キリストのまことの命にあずかりました。美味しい料理を食べた時に、心からの感動を覚えるように、聖餐の度に、主の恵み深さを味わい、生きる喜び、迫害に立ち向かう勇気が与えられていったのです。

人は年齢を重ねれば、重ねるほど、強い人間になれるとは限りません。その長い人生の中で、たくさんの失敗や過ちを重ねます。かつて手にしていた成功や名誉やプライドや財産も、老いや病や死を前にしてまったく役に立たないことに空しさと苛立ちを感じることもあるでしょう。唯一の楽しみである食事も、薬の影響で美味しいと感じることさえできなくなることもあります。しかし、そのような中で、なお私を愛し、希望と平安を与えようとしておられるキリストの命を感謝していただきます。

主イエスは、「天国というのは盛大な晩餐会だ」とおっしゃいました。天国において、花婿であるイエス・キリストを迎えて、共に婚宴の喜びの食卓に与ることができるというのです。その食卓はまったくの喜びで満たされています。嘆きも、悲しみも、恐れもありません。その天国で味わう食卓の前味を、既に地上の食卓で、つまり聖餐の食卓において前もって、先取りして味わっているのです。これが教会の礼拝です。主イエスは、今朝もあなたを招いておられます。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。」

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