憐れみ深いイエス様

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聖書の言葉

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章17~18節

保田広輝によるメッセージ

今日の御言葉に大祭司とあります。祭司はイスラエルの民が神様を礼拝するために、すべてを取り仕切る集団として神様から選ばれました。大祭司は祭司集団のトップの存在です。旧約聖書の時代では、神様を礼拝し、神様の前に近づくためには、祭司という仲介者なしにはできませんでした。当時は神様を礼拝するためには、犯した罪のためのいけにえとして、動物の血が献げられる必要がありました。なぜなら、ヘブライ人への手紙9章22節で書いてあるように、「血を流すことなしに罪の赦しはありえない」からです。

動物は罪人の身代わりに死にましたが、それは不完全ないけにえであったので、何度も何度も献げられる必要がありました。しかし、今は約2000年前にイエス・キリストが十字架でご自身を一回限りの完全ないけにえとして献げてくださったことにより、私たちはイエス様によって、神様を礼拝し、神様の前に近づくことができるのです。動物のいけにえは、私たちの罪が赦されるためのイエス様の犠牲を前もって表していたのです。

大祭司イエス様の役割は、神様の前で人間たちを代表して、「民の罪の償いをする」ことであり、その償いの目的は人間の罪によって引き起こされた神様と人間との破壊された関係を回復することです。イエス様は、大祭司となって民の罪を償うために、「すべての点で兄弟たちと同じようになられ」ました。

イエス様は私たち人間の受ける苦しみをすべて味わい尽くされて、私たちの苦しみをすべてわかってくださるお方です。今日の御言葉に、「憐れみ深い」とありますが、ここでの憐れみは、人間の状態の中にどっぷりと浸ることを意味します。人間をよく理解するために、人間の弱さに寄り添うために、イエス様は私たちと同じ弱さの中にある人間となってこの地上に来られました。そして、あらゆる試練や苦しみを経験なさいました。肉体の痛み、渇き、飢え、辱め、愛する人からの裏切り、離別、孤独、不安、恐怖、十字架にかかる犯罪人としての死、言われ無き罪を着せられる苦しみ、人間としての尊厳をはぎ取られた死・・・イエス様は私たちの苦しみを、人間の苦しみの極みを、すべて味わい尽くされたのです。だから、イエス様は私たちの苦しみをご自分の痛みとしてすべて理解して寄り添うことがおできになるのです。イエス様は試練を受けて苦しまれたから、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

イエス様は何ひとつ罪を犯されませんでした。しかし、全人類の罪をすべて背負われて、私たち人間に代わって、私たちの罪の償いをするために、ご自身をいけにえとして十字架におかかりくださったのです。それで神様は、イエス様のゆえに心をなだめられ、人間の罪によって引き起こされた神様と人間との破壊された関係を回復されたのです。

大祭司は神様の前にいけにえを持っていく人でした。イエス様は復活して、十字架の上で成し遂げた御業を持って、天に帰られました。イエス様は、私たちがどんな試練に会っても、その中から私たちを救うことのできる大祭司となって、いま天にいらっしゃいます。そして、私たちが試練や苦しみに押し潰されることなく、神様の子どもとして生きていく全ての必要な助けを与えておられるのです。

進行性の不治の難病を抱えている私は、人工呼吸器で生きていますし、今後さらに症状が悪化して、医者からは余命12年と言われています。私は痛みや孤独、精神的な苦しみを経験するとき、共にいて、そばにとどまってくれる人を求めたくなります。しかし、私たち人間は苦しみを嫌って避けるものですから、他人のために、他人と共に苦しむ人がいるでしょうか。難病になったせいで愛する人たちが離れていった人たちを私は多く知っています。

しかし、イエス様は私たちの兄弟となってくださいました。憐れみ深いイエス様は、私たち兄弟姉妹に対して、自ら進んで共に苦しんでくださいます。イエス様は、私たちの苦しみに心を動かされ、その苦しみに全面的に寄り添ってくださるお方なのです。私はイエス様の憐れみ深さを経験してから、自分を卑下すること、他人との比較、他人への妬みから解放されて、自分の病や苦しみを恥とせず、ありのままを受け入れて生きていけるようになりました。これこそイエス様の憐れみが与えてくださる生き方だと思います。

では最後に、「だから今日希望がある」という南米の賛美歌をお聞きください。

♪賛美歌

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