恵みの力

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聖書の言葉

こうして、神は、キリスト・イエスにおいてお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来たるべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章7~8節

八尋孝一によるメッセージ

もう25年も前の話になります。私が高校の教師になって初めて担任したクラスに、A君という生徒がいました。A君は日頃の生活に関して周りの大人達を心配させる生徒でしたが、新学期を迎えて早々、残念なことに家出をしてしまいました。実はA君の家出はそのときが初めてではありませんでした。彼は以前にも家出を重ねた経験があり、周りの人も慣れてしまったのか、誰も慌ててA君を探そうとはしません。誰からも探してもらえないのはきっとつらいだろう、誰も探さないなら担任である自分が探そう・・・そう思った私は、それから毎日のように、A君の行方を探して歩きました。

A君が行きそうな繁華街を巡り、手がかりを求めてA君の昔の友達を尋ねてもみました。しかし、なかなかA君の行方は知れません。最初のうち、私は自分のやっていることに半信半疑でした。しかし、1週間がたち10日がたつうちに、私はだんだん自分のやっていることに、ある心地よさを感じ始めていました。聖書の中に、いなくなった一匹の羊を探し回る羊飼いの話が出てきます。自分もこの羊飼いと同じ事をしている。これはキリスト教の愛の実践だ。自分がこれだけ一生懸命やれば、きっとA君にも何かが伝わるだろう。A君との間に信頼関係が築けるかもしれない。そんな期待を感じ始めていた矢先、A君が見つかったという連絡を受けました。私はすぐにA君を迎えに行きましたが、その後私が期待していたようなことは、何一つ起こりませんでした。その後もA君は心開くことなく、学校を去って行ったのです。私はいつの間にか、自分がA君のためにこれだけがんばれば、A君からも何らかの見返りがあって当然だと思うようになっていました。これはキリスト教的な愛の実践でも何でもありません。今思い出しても本当に残念な、私の失敗の一つです。しかし、考えてみると、私のみならず、多くの人は「がんばったらそれにふさわしい見返り・報酬があって当然だ」という世界に生きているのではないでしょうか。私たちが満足したり不満を感じるのも、多くの場合この点です。自分の頑張りに見合った期待通りの評価や報酬が得られたら満足し、そうでなければ不満を抱くのです。私たちが生きている世界は、自分が達成した成果に応じて何かが返ってくる世界です。

ところが、聖書に出てくる世界はこれとは違います。新約聖書マタイによる福音書の20章に、「ぶどう園の労働者のたとえ」という、イエス=キリストがお語りくださったたとえ話があります。この話には、朝から一日中ブドウ園で働いた労働者と、夕方から一時間しか働かなかった労働者がでてきます。一日の仕事を終えて、夕方から一時間しか働かなかった労働者が、ぶどう園の主人からまず報酬を受け取りました。朝から一日中働いた労働者はそれを見て、もっと多くもらえると期待したのに、主人が与えた報酬は同じ額でした。朝から働いた労働者は文句を言います。朝から働いた自分たちと、夕方から一時間しか働かなかった者たちの報酬が同じなのか。しかし、ぶどう園の主人はこう言うのです。「わたしは気前よく同じように払ってやりたいのだ。」つまり、あなたたちの頑張りに応じて支払うのではない、心から喜んでみんなに同じように払ってやりたいから払うのだ、というわけです。考えたらこんなに経済の原則を無視した話はありません。しかし、この他にも、聖書に出てくる計算は、妙なものばかりです。有名な放蕩息子のたとえでは、父親の財産を譲り受けて旅先でこれを無駄遣いし、全財産を使い果たしてしまう息子が出てきます。やがてぼろぼろになって帰ってきた息子を、父親はしかりつけるどころか、走り寄って出迎え抱きしめるのです。そして、極めつけは、イエス=キリストです。イエス=キリストは、人々の病を癒し、友無き者の友となったにもかかわらず、最後には人々の罪の身代わりとして十字架につけられます。いずれも、やったことに応じて、それに見合った何かが返ってくるという話ではありません。しかし、今日ぜひみなさんに覚えていただきたいのですが、これこそ聖書が告げている「恵み」の世界なのです。ぶどう園の主人、放蕩息子の父親、そして十字架にかかってくださったイエス=キリスト、これらは全て神様の限りなく豊かな恵みをあらわしています。それは頑張った人に、それに応じた報酬として与えられるものではありません。神の恵みは、何ができたかできなかったかに関係なく、神様の憐れみによって私たちに注がれます。この神の恵みこそが、私たちをかけがえのない存在として生かすのです。神様はこの豊かな恵みの内に、今も私たちを招いておられます。この世界に生きる私たちにとって、希望を失いそうになることが多くあります。自分の努力が正当に評価されず、それどころか、誤解され非難されることすらあるでしょう。しかし、神の恵みの内にある限り、私たちの価値が損なわれることはありません。何が出来ようができまいが、どんな評価や報酬を与えられようが与えられまいが、神の恵みの内に、今自分がここで生かされている、そのこと自体に意味があると信じます。たとえ倒れてしまっても、神の恵みはいつでも、どこからでも私たちを立ち上がらせることができる。恵みには力があるのです。

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