あなたの美しさ

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聖書の言葉

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。・・・この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」

新約聖書 マルコによる福音書 14章6~8節

藤井真によるメッセージ

主イエスはひとりの女性におっしゃいます。「良いことをしてくれた」と。「良いこと」というのは「美しいこと」と訳すことができる言葉です。「あなたはわたしに美しいことをしてくれたね。ありがとう」。十字架を目の前にしている主イエスはそのように言うのです。彼女が行った美しいこと、それは食事の席でナルドの香油と呼ばれるたいへん高価な香油を主の頭に注いだことでした。

「美しく生きる」と聞きますとどのようなことを思い浮かべるでしょうか。いや、別に自分は美しく生きたいとは思わない。人の価値は見た目なんかでは判断できないのだから。そう思われるかもしれません。確かにその通りでしょう。人の価値は見た目や、自分の地位によって判断できるものではないからです。

ただ、このような問いも生じてきます。美しく生きることは本当にいけないことなのでしょうか。私は決してそんなことはないと思います。なぜなら、主イエスはここでおっしゃるのです。「美しいことをしてくれた」と。主イエスは、人の中にある美しさを見ておられるのです。そして、そのことを「良いことをしてくれた」と言って、本当に喜んでくださったのです。主イエスの言葉を聞きながら、改めて考えさせられます。私たちが美しく生きるとはどういうことなのでしょうか。人の本当の美しさとは何なのかと。

昨年の秋に「おくりびと」という映画を見る機会がありました。主人公の男性は、オーケストラのチェロ奏者として働いていたのですが、そのオーケストラが急に解散して、仕事を失うことになってしまう。そこで彼は妻と共に実家に帰って職を探します。ある日、求人広告の中に「旅のお手伝い」という言葉を見つけ、旅行会社と思って面接に行くのですが、実はその「旅のお手伝い」というのは、安らかな旅立ちを手伝うことだったのです。つまり、死者を安らかに送り出す仕事、「納棺師」の仕事だったのです。納棺師というのは遺体を棺に納める仕事をする人です。遺体をきれいに拭き、化粧を施し、最後に「旅装束」と呼ばれる真っ白な衣を着せるのです。そして、棺に遺体を納めるのです。納棺師―それは死と向き合い、人と人との別れに立ち会う人たち。いのちの尊さをいつも見つめているひとたちです。しかし、納棺師という仕事は決して人気のある職ではないようです。どうしてかと言うと、いつも死人と接するからです。「死」というのは汚れたものだと考えられます。だから主人公のその人自身も自分がしている仕事を誰にも言うことができず、妻にもずっと隠したまま仕事を続けます。しかし、やがて妻に知られ大喧嘩になってしまう。主人公の男性はそのような様々な葛藤を抱えながら、人のいのちの尊さ、人と人とのつながりの大切さを学んでいきます。そして、段々と自分が「おくりびと」として、納棺師として働くことに誇りを持つようになりました。

「死」というのは、いわば美しさと対極にあることでしょう。「死」というのは、喜びというものと対極にあることでしょう。けれどもそのような汚れや悲しさ、暗闇の中にありながら、確かに輝く美しさがそこにあります。それは遺体を葬るにあたり、精一杯にその人を美しくしてあげるということです。納棺師というのは、そのような美しさに生きている人だと思いました。

その映画の中で、ある遺族の方、その人は亡くなった方の夫なのですが、生前は夫婦仲がうまくいかなかったそうです。結局和解できないまま、妻と別れることになった。その夫は、当然複雑な思いに捕らわれます。悲しみだけではないでしょう。妻と和解できずに終わってしまった自分の醜さです。でもそれをどうすることもできずに、つい納棺師に「あんたたちは死人で飯を食っている」と罵声を浴びせてしまう。しかし、納棺師の仕事をじっと見ていく中で心が動かされていきます。そして最後には、「今までこんなに美しい妻の顔を見たことはない。ありがとう。」とお礼を言っていたのが印象的でした。その人は、今までに見たことのない美しさを死の中に見たのだと思います。納棺師の仕事の中に見ることができたのです。それが彼を慰めました。

人は死を前にして恐れを抱きます。今まで自分の中に隠れていた闇が明らかになる時です。そこに一筋の光を見たい、最後だけは美しくありたい。それが私たちの願いなのかもしれません。私たちは美しく生きたいのです。そのような私たちの願いを受け止めてくださり、そこに美しい光を、豊かな慰めを与えてくださる方がいるならば、私たちは安心して死ぬことができます。それゆえに、与えられた地上の生涯を大切に生きようとするのではないでしょうか。

今朝の御言葉の中で、ひとりの女性が主イエスの葬りの準備をするために、高価な香油を注ぎました。それは、周りの人たちから「何てもったいないことするのか」と咎められるようなことでしたけれども、主イエスは彼女の行いの中に、確かな美しさを見出してくださいました。それはご自分を愛してくれる美しさです。主イエスが死なれるということを受け止めて、精一杯愛したのです。神さまを愛すること、それは美しいとしか言いようのないことです。周りから無駄なことだと言われたとしても、神を愛することは美しいことなのです。彼女は、主イエスだけが自分の中にある罪のために死んでくださることを知っていました。死を打ち勝ち、なお美しく生きることのできる、たったひとつの道を私に与えてくださるために、主が十字架についてくださることを知っていた。そのことを感謝をもって受け止めたのです。私たちはもう自分で美しさをつくりだして、自分の醜さを隠さなくてよいのです。もう惨めな姿で死ななくてもよいのです。主イエスは私たちのために十字架で死んでくださり、よみがえってくださったのですから。どうか、この喜びの知らせを皆様も信じて、受け止めてくださいますように。そこに何にも勝る、あなたの美しさがあるからです。

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