聖書の言葉
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
新約聖書 ヨハネの黙示録 1章8節
川瀬弓弦によるメッセージ
2009年は非常に暗い話題がつきまといました。明るい話題がなかったわけではありませんが、しかし世界的な不況の波に、完全に呑み込まれてしまったように思います。そんな暗い年を後にして、2010年新しい年が始まりました。私を含め、みなさんもまた、今年はどんな年になるだろうかと、不安を覚えつつ、しかしある期待感も持って、新しい歩みを始めようとしていることと思います。今年は一体何をしようか。2010年が終わるころには、一体何を達成したいか、そんな今年の目標を立てておられる方は多いのではないでしょうか。何かの始まりは、また私に終わりのことを考えさせるものです。
私たちを造られた神様は「アルファでありオメガ」であると今日の聖書箇所は告げています。アルファはギリシャ語のアルファベットの一番最初の文字で、オメガは一番最後の文字です。神様は最初であり、そして最後であるという意味です。しかし神様には始まりがあって、そして終わりもある、そういう神様であるという意味では決してありません。そうではなくて、神様は永遠の神であるということを言い換えているわけです。それでは初めから「私は永遠なる神である」と言えばよいではないかと思うのです。しかしここで神様が「私は始めであり終わりである」とわざわざ言われることには、とても大きな意味があると思っています。神様は永遠のお方ですが、時間の中に生きている私たち人間のことを決してないがしろにはされません。神様はこの世界を造られて、あとはなるがままに放置されたわけではありません。私たちが年の初めに今年の目標を掲げて、すでに年の終わりを見据えているのと同じように、神様はこの世界を造られた時から、すでにこの世界を通して何を成し遂げようかと、その目標を立てられました。神様はこの世界を、一体どこに向かうか分からないような世界として造られたのではなくて、始めからちゃんと目的を持つ世界として造られたのです。
「アルファでありオメガである」神様が私たち人間も造ってくださった。それは私たちにとってどんな意味があるでしょうか。それは目的のない人生など一つもないということだと思います。「望まれない命」という言葉が社会の中には蔓延しています。あなたは生まれてくるべきではなかった。生まれてきて欲しくなかった。あなたは望んで生んだ子ではないのよ、そう親から言われてとても傷つく子どもたちが大勢います。それは命の意味を、人生の目的を奪ってしまうことです。しかしアルファでありオメガである神様が与えられた命に、目的のない、意味のない命など一つもありません。一人一人には、神様から与えられている人生の目的がちゃんとあるということです。生きていることには意味があるのです。生まれたその時から、いいえ、生まれる以前から、神様は一人一人に命の目的を与えられているのです。
私たちを造ってくださった神様が一人一人に与えて下さっている「生きる目的」、そのゴールは一体なんでしょうか?「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」そう呼ばれているのは、神様の御子イエス様のことです。これらの表現もまた、イエス様が永遠のお方である、ということを述べています。しかしこれもまた私たち人間との関わりの中で語られている事なのです。昔から、そして今に至るまで人と共におられるイエス様、そしてやがて私たちのために来られるイエス様がここには語られています。
聖書の一番最後の書物であるヨハネの黙示録は、当時のローマ皇帝によって教会が激しく迫害された時代に書かれた手紙です。明日も危ぶまれる、そういう不安の中に教会は置かれていました。社会の中ではもう居場所がない、そのような苦しさの中に置かれていた教会に、神様は私はあなたと共にいる。そしてまたあなたのために私はもう一度来る。そうやって教会を励ましました。社会が教会をこの世から消し去ろうとしている中で、この世で存在することの意味を神様ご自身が教会に与えました。それは主イエスに出会い、共に生き、そして主イエスがもう一度来られることを待ち望みつつ、忍耐して日々を歩むという目的でした。
イエス様に出会い、共に歩み、そしてイエス様がもう一度来られることを、心待ちにしながら生きること、それが神様から与えられている私たちの人生の目的です。たとえこの世にとって「望まれない命」があったとしても、主イエス・キリストはそういう命のために天から降ってこられ、そしてご自分の命さえ献げて下さいました。このお方との出会いを通して、私たちは新しい命を頂くことができます。その命はもはや「望まれない命」ではなく、神様によって永遠に生きる、永遠に望まれ続ける、そういう命へと変っていくのです。始めであり終わりである神様によって造られた私たちは、この主イエス・キリストの内にこそ、命の意味を、命の目的を見出す者であるのです。