後のものを忘れ 前へ!

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聖書の言葉

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章13~14節

藤井真によるメッセージ

新しい年を迎えました。今年もラジオ「キリストへの時間」を通して、ひとりでも多くの方に、神さまの豊かな慰めが届けられることを祈りつつ、番組を作っていきたいと願っております。皆さまのうえに、主イエス・キリストの祝福がありますように。

昨年、よく売れた本の中に、精神科医である香山リカさんという人が書いた『しがみつかない生き方 ―「ふつうの幸せを手にいれる10のルール」―』(幻冬舎新書)という本があります。あるキリスト教雑誌で彼女のことが取り上げられていて、気になって手にとってみました。この本のあとがきの中に、印象深い文章が記されていました。「いつからこんなに生きることが大変なことになったのだろう。」皆さんは、この言葉をどのように受け止められるでしょうか。「いつから生きることが大変になったとのか」と問われて、自分の過去を振り返り、あの「時」の、あの「出来事」というふうに具体的に思い出される方もおられるでしょう。

しかし、香山さんがここで疑問を呈しているのは、「いつから」といった過去の出来事ではないようです。そうではなくて、生きること自体が「大変」になってしまったということを嘆いておられるのだと思います。それは、本の副題の中にある「普通の幸せを手に入れる」という言葉からも分かります。香山さんは、精神科医として、多くの人たちと真剣に関わってきた方ですから、人が生きていくうえでの重荷や大変さを受け止めて来られました。ですから、悩むこと悲しむことはおかしいと言っているのではありません。しかし、生きることの大変さを知ったうえで改めて問われるのです。いつから生きることが大変なことになったのだろうか。本当は、生きることというのは「幸い」なことではないか。この普通の幸せ、私たちが生まれながらに持っている幸せはいったいどこに行ってしまったのだろうか。どのようにしたら、大変さを抱えながら、幸いな人生をおくることができるのだろうか。

生きることが「大変なことだ」と辛く、悲しくなるのは、私たちが何か立派なことができないからでしょうか。それだけではないと思います。むしろ人間として誰もがするような、普通の、ごく当たり前のことから、いつも墜ちてしまうことの中に悲しみがあるのです。人間として誰でも分かっているはずのことを、普通のことを、毎日の生活の中でやり損なっているということです。しかも、そういうところで私たちは立ち上がって、前へ進んでいく力が湧いてこないのです。

そして、私たちが普通の幸せを見失ってしまった理由について「しがみつく」という言葉で表現しています。私たちは、仕事やお金、恋愛、そして過去の出来事にもしがみついて離さないのです。不思議なことに、楽しかったことや、嬉しかったことは、なかなか思い出せません。楽しかったことを思い出したとしても、元気になるほどに心が燃えて来ない。一方で、嫌なことはすぐに思い出せます。心が痛みます。どうして私はあんなひどい目に遭ったのだろうか。どうしてあの人は私にあんなひどいことを言ったのか。そして、最後に、どうしてこんな辛い人生を歩むために生まれてきたのかという問いに辿り着き、身動きができなくなるのです。

そのように思いを巡らせながら、初期キリスト教会の伝道者パウロが語りました「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」という神の言葉に耳を傾けます。私たちがなすべきことはただ一つなのだと言うのです。「ただ一つ」と聞きますと、特別な大事なこと理解することもできますし、また人として当然のこと、普通のことというふうにも読むことができると思います。ただ「普通」という言葉を聞くと、人間として、どこか程度の低い次元のように考えてしまうことがあるかもしれません。「普通」よりは、「特別」な方が言いに決まっていると。

でも神さまは、私たちが人間として当たり前のことをする、普通のことをする、「なすべきことをするだけです」と言って、誰かを愛し、仕えていく姿の中にこそ、私たちの幸いがあり、そのような幸いに気付くことができるようにと、救い主イエス・キリストを与えてくださったのです。

ある説教者が次のようなことを言っていたことを思い出します。「過去の出来事は変えることはできないけれど、過去の意味は変えることができる。そして過去の意味が変わるというのは、神さまがこれから私たちにしてくださることによって明らかになる。」私たちは嫌な思いをさせられたり、反対に嫌な思いをさせたりしながら、傷口がますます深くなっていきます。でもその傷を主は癒してくださったのです。過去の傷跡は、まだ深く残っているかもしれません。まだ心に焼き付いているかもしれません。しかし、あなたは既に癒されたのです。神に愛され、赦されたという決定的な恵みの経験の中から、やり直すことのできる人生を、主イエスは私たちの前に開いてくださったのです。

あるキリスト者の方がこんなことを言っています。「死が前にあるのではなくて、もう私は死に終っているんだ。死から解き放たれているのかと思うと、毎日の生活の気分が以前とは違う。死を超えて生きる思いに、私は本当に慣れた。」私たちが最後に怯えるのは死ぬことです。その時に、自分の過去の過ちを悔いることも多いのです。でも、その罪と死に、主イエスは既に打ち勝ってくださった。だから、死を超えた思いに、もう慣れているというのです。主イエスが私を捕まえていてくださるから、後ろのものにしがみつくことも、前にある大きな壁の前に立ちすくんだままでいることもない。後ろのものを忘れ、前へ進むことができる。そのような人生の道を、神さまは今年もあなたに用意してくださっています。

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