生きている石

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」

新約聖書 ルカによる福音書 20章17節

吉岡契典によるメッセージ

私は小さい頃から歯が弱くて、よく歯医者に行っては、毎回必ず虫歯を見つけていただいて、銀歯を詰めてもらっています。私の銀歯は、他の人にとっては、ただの歪んだ小さな鉄くずに過ぎないのですが、それは私にとって、私の欠けた歯にぴったりとフィットする、他には代えの利かない、なくてはならないものです。主イエスが語られた今朝の御言葉を読みながら、そんなことを考えました。

主イエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と、旧約聖書の詩編118編の言葉を引用しながら語られました。

家を建てる時に、不格好な石の存在は邪魔なだけです。ですからそういう石は、力いっぱい敷地の外に放り出されて、捨てられます。家を建てようとする時には、まずその敷地内を掘り返して、そこに埋まっている瓦礫なり石を撤去します。その時、それらの石や瓦礫は、邪魔で目障りなゴミなのです。けれども、不思議なことが起こります。撤去されて捨てられたその石が、端っこに捨てられながらも、実はその場所で、それなしには建物全体が崩れてしまうほどの重要な親石・要石になる。この言葉の引用元の詩編118編には、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」という言葉に続いて、「これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」という、「この主なる神の御業は、私たちにとっては尋常でない驚きなのだ」という言葉が、付け加えて語られています。つまり思ってもみないことが起こる・・・。

捨てたはずのゴミが、死んだも同然の廃棄された石が、そこで、息を吹き返す。放りだされた石が、建物の命を支える要石として、生き返るのです。退けられて、捨てられ、廃棄された石が、石の墓場で蘇る。そしてその墓場こそが、実は新しい家の土台となって、私たちの想像を超えた新しい家が、その石を基礎として墓場の中に建て上がるのです。

つまりこれは、死が命に変わる。絶望が希望に逆転するという意味の話なのです。今は、教会の暦で言えば、受難節、レントと呼ばれる季節で、主イエス・キリストが架かられた受難の十字架に目を留める季節です。

イエス・キリストが、エルサレムの町のはずれのゴルゴダの丘で十字架に架けられたことは、石が、ゴミとして石捨て場に捨てられるという御言葉に結びついている事実です。十字架で死なれた主イエス・キリストは、殺されても、それで終わらず、むしろそこから新しい始まりが、新しい命が立ち上がるのです。そしてそこが隅の親石となって、その上に新しく建てられる家に不可欠な土台となる。新約聖書が家という言葉を用いる時、それは神様の家である、キリストの教会のことを指し示します。

つまり、主イエス・キリストという石は、人々からも、そして神様からも捨てられて、十字架に架けられて、死んだことによって、しかし教会という家を建て上げるための親石、礎石となったのです。教会の親石になったということは、同時に、教会に集い、また教会に繋がる、私たち皆にとっての要石、親石に、主イエス・キリストがなってくださったということでもあります。

主イエス・キリストという方は、しかしなぜ、家を建てる人によって、外に投げ捨てられてしまうのでしょうか?それはきっと、キリストという石が、四角く滑らかで立派な墓石のような、整った石ではなく、不格好な石だからなのではないでしょうか?傷ついていたり、欠けていたり、ひび割れている石は、使い物にならないから捨てられるわけですけれども、しかし、投げ捨てられたその石が親石となって、それが私たちの土台となり、支えとなるということは、それはつまり、イエス・キリストという石の、不格好さや歪みは、歯の詰め物のように、必ずしもまっすぐに整っていない、私たち一人一人の人間性と、その歪みに、ぴったりとフィットするということなのだと思います。

主イエス・キリストは、十字架で傷を受け、引き裂かれてくださいました。しかしそれは、私たちそれぞれが持っているへこみや歪みに、ぴったりと合わせてくださるためでした。そういう主イエスだからこそ、私たちそれぞれにあった、確固たる土台となってくださるのです。

しかも主イエスは十字架の死から、復活してくださいました。つまり主イエスは死んだ石ではなく、生きた石であられます。主イエス・キリストは、石のような固さ強さと、同時に、生き生きとした復活の命をもって、私たちそれぞれのへこみや、でっぱりや、歪みや、傷にぴったりと合わせた親石となって、私が倒れないように、教会が倒れないように、しっかりと支えてくださるのです。

インマヌエル、神がわたしたちと共におられる、ということは、まさにこのことを言い当てる言葉なのではないでしょうか?神が共に居てくださるということは、ただ隣に一緒に居るというあり方を超えるものです。私たち皆は、主イエス・キリストという、私の生きた親石にしっかりぴったり支えられながら、その上に今朝も立っているのです。

関連する番組