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Meg様へ

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年05月15日 14時23分33秒

やっと返信下さいましたね。Meg様、お忙しいところ、ありがとうございます。「匿名さんへ」の御主旨はわかりました。そのことについては後で書かせて頂くとして、お願いがあります。今回新たに、私が以前投稿した、「改革派教会の創立60周年記念宣言についての問い」と「質問を替えます。(脚下しないで!)」の2件をアップして下さいましたが、これらはお手数ですが削除して下さい。他の閲覧者のためにもぜひお願いします。理由は、まず最初(5月3日送信と記憶していますが・・・)の「改革派教会の創立60周年記念宣言についての問い」は、次の「質問を替えます。(脚下しないで!)」の投稿によって文字通り「替え」たのですから無用になったからであり、その「質問を替えます。(脚下しないで!)」も「却下」とすべきところ「脚下」と書くなど間違いがあったので、5月9日に「前の質問の補足(却下しないで!)」を投稿した次第です。ですから、今回アップして下さった2件は削除し、直近で投稿した「前の質問の補足(却下しないで!)」をアップして下さい。よろしくお願い申し上げます。もし、前の2件を削除できないのであれば、5月9日投稿の「前の質問の補足(却下しないで!)」もアップして下さい。そうでないと辻褄が合わないのでお願い致します。

さて、今回の御返信における、「神の国」は「神の支配」とも訳されることであり「場所」を意味しない・・・との御見解についてですが、私もそのように言われる意図、言わば聖書神学的事情のようなことは考慮したうえで投稿しています。また、「神の国」とともに「天(の)国」という表現を用いるのはマタイによる福音書の特徴であるということも聖書の常識だと思います。
ところで私が今回の質問で問題としているのは福音書だけではなくヨハネの黙示録(以下「黙示録」と表記)の終末論における「神の国」です。「宣言」の文脈もそうなっていますし、私の質問の内容も先日送信した「前の質問の補足(却下しないで!)」を読んで頂ければ、次のように書いているので明らかです。

(以下、私が5月9日に投稿した質問内容)
「日本基督改革派教会 創立60周年記念宣言『終末の希望についての信仰の宣言』」というものがありますが、その「4 キリストの再臨と神の国の完成」の「(4)栄光の神の国と永遠の命 創造の回復と完成」のところで、「最後の審判の日に、現在の天と地は過ぎ去り、万物は新しくされ、神の裁きによって罪と汚れから完全にきよめられた新しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。被造物は、今や虚無と滅びへの隷属から解放され、回復され、完成に至り、神の栄光に満たされます。」とあります。そこで1つめ質問です、「現在の天と地は過ぎ去り」と言われておりますが、どこへ行くのでしょうか?ただ消えてなくなるという意味ですか?
2つめの質問、「新しい天と地」と「神の国」とはどのような関係にあると考えられているのですか?同じものですか?

黙示録の表象には場所的なイメージもあると思います。むしろそのような形而上的色彩が強いのが黙示文学的特徴でしょう。もちろん新約聖書全体の読み方としては他の文書、特に福音書におけるイエスの「神の支配」と黙示録における「千年王国」や「新天新地」なり「新エルサレム」などとの関連は言うまでもありませんが、各文書の独自性も認められます。福音書(特に共観3書)におけるイエスの発言にはそれぞれの文脈があり、一概に「神の支配」と訳せばよいとか「場所・領域」の意味はないとは言いきれないのではないでしょうか?
聖書学者の中にも、「バシレイア・トゥー・セウー」の「バシレイア」には「支配・統治」と訳す方が適している場合と「(王)国」と訳する方が適している場合とがあることを指摘する人もいます。特に現在すでに働いているプロセスを示す場合は「神の支配」と訳す方がよいが、それが将来、完成し現前化する場合は「神の(王)国」と訳す方がよいと言われます。
ちなみに、G・ヴォス著上河原立雄訳『神の国と教会』(聖恵授産所出版部)では次のように書かれています。
「イエスにとって、神の国は来るべき神の支配に伴う、全ての祝福と特権を含んでいるから、この言葉が具体的な意味を帯びてくることはさけられない。本来の意味である『支配』から、『領土、人民の総体』を示すものでなくても、少なくとも『領域』、すなわち、『人生の領域』、『物事の領域』等、いくらか場所的色彩を帯びたものとなり始めた。たしかに、このような具体的意味があるから、『御国』は神のものであり、神によって進展させられるという表現も生れてくる。そして、その場合、もはや『神の国』を『神の支配』、と訳すことは適当でない。事実、福音書を一読すると、イエスが神の国について語られたすべての場合に、抽象的な意味、すなわち、『支配』、『統治』という訳語を一貫して用いることは、全く不可能であることが分る。」(p21~22)
以上のように、福音書におけるイエスの言葉にさえ「バシレイア」を「支配・統治」といった訳よりも「(王)国、領域」といった場所的意味の訳語の方が適している場合があるのですから、黙示録の終末論的文脈においてはなおさらであると言えます。
なお、上記の引用で「人民の総体」とありますが、これは単に御指摘の(キリスト・神の)「支配のもとに生きる人たちの集まり」という意味にとどまらないことは、これも前後の文脈から明らかです。
要するに、「バシレイア・トゥー・セウー」を「(王)国、領土」といった場所的イメージで理解することを忌避する傾向は、いわゆるリベラル派の特徴であることが上掲書の内容から読み取れると思います。たしかに中世のカトリック教会で普及されたといわれる「天国と地獄」のイメージのように死後の世界を絵画的に思い描いて、「神の国」はその「天国」と同一だと思い込むことはプロテスタントの信仰として問題なしとは言えないでしょう。しかし改革派教会の教理でも「中間状態」とか「最後の状態」はある種の「場所・領域」的イメージで語られており、死んだ信者の魂は天国で祝福された状態にあると言われています。中間状態の彼らはまだ約束の地を所有していないとか体を有しないなどの限定はありますが、イメージとしては「場所・領域」です。ヨハネス・G・ヴォス著/玉木鎮偏・訳『ウェストミンスター大教理問答書講解』(聖恵授産所出版部)では、死んだ信者の魂が受け入れられる「最高の天」の「天」について、「聖書は、天とは神の栄光が特にあらわれている場所であり、私たちの救い主イエス・キリストが栄光化されて人間性をもって、現在生きておられる場所であることを、明確に教えている」と述べています(p327)。「天」がそのような「場所」として言われているのですから、「神の国」もこうした「場所」的意味が教理的に認められるのではないでしょうか?むしろ、「神の国」から「国」といわれるような場所的、領域的イメージをいっさい排除しなければならないということになると、信者の中には抽象的で理解困難に思う人々も多く出てくるように思われます。
要は程度問題でしょうね。中世カトリックにおける「天国」イメージのように、あまりに具象化した絵画的な表現に傾いてもよくないが、リベラル派のように神話的表象を軽視することもいかがなものかと思うのです。このへんのところは一信徒の私にはこれ以上、踏み込めないことなのでこれで控えます。

私の質問の3つめは、月間レムナント誌主筆の久保有政氏の説についてのものでした。これは久保氏の説を批判の俎上にのせる意図ではなく、自分が質問する上でわかりやすい実例として挙げたまでです。何を質問したかったのかと言えば、プロテスタントの、同じ福音派に属する立場からの、黙示録における「神の国」についての理解と、改革派教会の立場との異同です。改革派教会の「神の国」(特に黙示録の文脈における)の教理を漠然と問うよりも比較の対象がある方がわかりやすいと思ったからです。その点で久保氏の「レムナント」の教理解説はわかりやすく、「セカンド・チャンス」説に代表されるように(賛否があるものの)定評があるので、福音派の聖書解釈として実例にするには適していると判断した次第です。
私見では、久保氏は聖書をバランスよく解釈されるので、個人的には参考にさせて頂いているのですが、「神の国」についても一方では御指摘のような、場所的な意味ではとらえられない面を語っておられ、しかしもう一方では、下記のように場所的なイメージの表現が適する面も語っておられます。
「目に見えない現在の天国は、新天新地では目に見える新天新地と合体して、目に見える具体的な世界となるのです。それは目に見える天国 目に見える御国 目に見える神の国です。そこには、神様とキリスト様が住んでいらっしゃいます。人々は新エルサレムに出入りし、親しく神様と交わるでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/090kurisu.htm

その他の引用は、すでに5月9日送信の質問内容と重なるのでここでは書きませんが、久保氏がコロサイ書2章17節の「来たるべきもの」を「神の国」と解釈しておられることについての御見解を問うています。
これについては個人の聖書解釈を批評したり批判することはこの掲示板の趣旨にふさわしくないといったこともあるでしょうから、無視されてもよいのですが、改革派教会では信仰基準にもとづき、聖書解釈は大体、統一されているはずなので、参考までにお尋ねした次第です。コロサイ2:17の「来たるべきもの」は、改革派教会では何を意味すると考えられていますか?これが3つめの質問であり、上記の2つの質問とあわせて、ぜひ、お答え願いたいと存じます。以上




匿名さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2016年05月15日 01時18分30秒

回答が大幅に遅れ、申し訳ありませんでした。

「神の国」について、60周年宣言や他の先生のご意見に言及する前に、聖書の言葉遣いから、基本的な意味をご説明します。

神の国は、ルカ17:20-21によれば、「どこか」に場所があるのではありません。「神の国」という言葉は、「神の支配」を意味します。マタイによる福音書で「天の国」と書かれているのは、神の名をみだりに唱えてはならないという教えを固く守っているユダヤ人に配慮して、神を「天」と言い換えているためで、これもまた、場所のことを言っているのではありません。

では「神の国」とはどのように現れるのか。
それは、イエス・キリストを自分が従うべき王だと信じる人の心とその生き方に現れてきます。そのように生きている人の集まりが王国を形成します。(これは残念ながら地上の教会とイコールではありません。クリスチャンと言いながらも、自分が一番であるかのように生きている人がおられたりするからです。)

私たちは主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
「御国に行かせてください」とは祈りません。
このことからも、「神の国」がどこかの場所のことではないことがわかります。「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、「今日もイエスさまを王として仰ぎ、従うことができますように」、「キリストの僕としてふさわしく生きることができますように」、「イエスさまが十字架の上で私たちに赦しを与えてくださったことを想い、その愛と赦しによって私たちに与えられた平和を、今日も隣人と共有し、主の平和の御支配の中で生きることができますように」…という祈り願いがあるからです。

「神の国」がどこかにある場所のことではなく、「神の支配」「キリストの支配」の意味であるということ、あるいはその支配のもとに生きる人たちの集まり、という理解で、もう一度60周年宣言などを読んでみられてはいかがでしょう。

お尋ねの3点への直接的回答ではありませんが、ご参考になさってください。

前の質問の補足(却下しないで!)

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年05月11日 12時38分20秒

この前の、改革派教理における「神の国」とは?という質問の仕方では漠然としていると思うので補足します。今回は、改革派教会の「神の国」に関する発言の実例をあげ、これについて具体的におききします。これは却下しないで下さい!お願いしておきます。

「日本基督改革派教会 創立60周年記念宣言『終末の希望についての信仰の宣言』」というものがありますが、その「4 キリストの再臨と神の国の完成」の「(4)栄光の神の国と永遠の命 創造の回復と完成」のところで、「最後の審判の日に、現在の天と地は過ぎ去り、万物は新しくされ、神の裁きによって罪と汚れから完全にきよめられた新しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。被造物は、今や虚無と滅びへの隷属から解放され、回復され、完成に至り、神の栄光に満たされます。」とあります。
そこで1つめ質問です、「現在の天と地は過ぎ去り」と言われておりますが、どこへ行くのでしょうか?ただ消えてなくなるという意味ですか?
2つめの質問、「新しい天と地」と「神の国」とはどのような関係にあると考えられているのですか?同じものですか?

ちなみに、月間レムナント誌主筆の久保有政氏は次のように説いておられます。
「地上のクリスチャンたちは天にある神の国の『大使館』であり、『天国』が神の国の『本国』です。では、この『大使館』『本国』は、将来どうなるのでしょうか。キリストが、『神の国は近づいた』と言われた時、その『神の国』とは、天にある神の国(天国)をさしました。天にある神の国は、やがて定められた時に、地上に降りてくるのです。天の神の王国は、やがて地上に降りてきて、地上世界と一体になり、地上世界を『吸収合併』するでしょう。地上世界は、上から『神の国』を着せられ、古い汚れたものは、すべて中に呑み込まれ、消え失せてしまうでしょう。地上世界は、栄光に輝く『神の国』を上から着せられて、新しく生まれ変わるのです。神の国は地上世界に下りてきて、地上世界をおおい、それを『吸収合併』するのです。地上世界のすべての事柄を建て直し、そこを神のみこころが実現した世界となすでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/025kaminokuniwa.htm

「新天新地には、真ん中に新エルサレムがあります。これは『天のエルサレム』とも呼ばれる現在の目に見えない天国が新しい地に降りてきたものです(黙示二一・二)。目に見えない現在の天国は、新天新地では目に見える新天新地と合体して、目に見える具体的な世界となるのです。それは"目に見える天国""目に見える御国""目に見える神の国"です。そこには、神様とキリスト様が住んでいらっしゃいます。人々は新エルサレムに出入りし、親しく神様と交わるでしょう。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/090kurisu.htm


久保氏は次のようにも述べておられます。
「来たるべき天国=天の神の国の本体は、キリストご自身なのです。」
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/025kaminokuniwa.htm

これは、コロサイ書2章17節の「来たるべきもの」を「神の国」と解釈することによって言われているのです。
そこで最後の質問は、これについてどのような見解か?ということです。「来たるべきもの」とは何だと思いますか?「神の国」ですか?そしてその「本体」がキリストなのですか?
もし「神の国」の「本体」が「キリスト」だというのであれば、それは具体的にどういう意味かご説明願います。

以上、3点についてお教え下さい。

改革派教理における「神の国」とは?

投稿者:
匿名
投稿日:
2016年04月23日 20時38分18秒

現在、聖書を読んでいて「神の国」について考えさせられています。改革派教会の神学では、「神の国」とはどのようなことであると理解されているのでしょうか?
ウェストミンスター信仰基準の終末の教理では、「神の国」についてのことがあまり語られていません。「神の国」は死後の世界なのか、それともこの世の事柄であるのか、このへんのところを、改革派神学に基づいて教えて下さい。よろしくお願い致します。

掲示板 修正しました

投稿者:
管理人
投稿日:
2015年12月03日 22時13分42秒

掲示板のページ送り機能に不具合がありましたので修正しました。
御指摘ありがとうございました!

掲示板がおかしいよ

投稿者:
レムナント
投稿日:
2015年12月03日 22時09分09秒

掲示板がおかしいですよね。1から9までクリックしても同じ内容ではないですか?出ている人もヨアブさん、sonar_fisxさん、匿名さん、有又屋さん、三並さんと同じじゃないですか?ほかにもこの掲示板の参加者はいたはずです。いったい、どうしたっていうんですか?

ヨアブさん(=愛用者様)へ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年08月24日 22時26分13秒

ヨアブさん、ご質問とお問い合わせページからのご指摘、ありがとうございました。なかなか難しいご質問でしたので、回答を用意できてから、ご質問と合わせてアップする予定でしたが、回答がまだ用意できておらず、お待たせしております。なんとかお答えしたいと思っておりますが、今少しお時間をいただきたく、ご了承くださいますよう、お願いいたします。

父子同等の教理に関する質問

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年05月29日 13時16分08秒

御子と御父とが同等であるということについてお教え願います。

ニカイア信条では「御父と本質を同一にして」(΄ομοούσιον τωι πατρί )と、「同じ」という言葉が使われ、アタナシオス信条では「その神性によれば父と等しく」(Equal to the Father, as touching his Godhead)と、「等しい」という言葉が使われていますが、これは同じことを言い表しているのでしょうか?

原語と訳語の違いもあるでしょうが、この場合、「同質」と「等質」とは同じ意味ですか?

問題はその聖書的根拠です。
ウェストミンスター大教理問答の問9では、「神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。」とあり、「同等」の根拠としてはヨハネ10:30だけのようです。

聖書には、ニカイア信条の主要用語である「ホモウーシオス」という言葉そのものは無いことはわかっていますが、教会の信仰告白である以上、その根拠となる箇所はなければなりません。

さて、聖書の中で、御子と御父とが「同質」なり「等質」であることを示す箇所を教えて下さい。そのように解釈できることばを教えて下さい。
ある人は、ヨハネによる福音書10:30とか17:22(の「一つ(ヘン)」)を挙げておられますが、これだけですか?これが御子と御父が「同質、等質」であることの根拠聖句になるのでしょうか?「一つ」とは言っても、何が「一つ」であるのか具体的にはわかりません。本質とか実体が同一という意味にもとれますが、意志の一致という意味にもとれます。御子と御父との極めて親しい関係を象徴的に表わしているだけかも知れません。

ちなみに、フィリピ2:6では「等しい(イソス)」が使われていますが、何が「等しい」かは明らかではなく、しかも御子キリストは、父なる神と「等しい」ことに固守しなかったのだから根拠聖句にはならないと思います。

全ての食べ物が清められたことについて

投稿者:
sonar_fisx
投稿日:
2015年04月13日 14時44分08秒

使徒10:9-28なのですが、ペテロが空腹の時の出来事で、神が清めたものを汚れていると呼んではならないと幻がペテロに言っていますが、その後、28節で、神は何人を汚れていると呼ぶべきではないことをお示しになりましたとペテロは言っていますが、これは人の事ではなくて食べ物を神が清めたことをペテロは理解できていないんじゃないでしょうか?なぜそう思うかというと、12、13節で生き物をほふって食べなさと書いてありますが、14節でペテロはいまだかつて汚れたものは食べたことが無いと言っているのでこの幻の意味が全ての人は清いという意味なのであれば律法で禁じられた食べ物は禁じられたままということになってしまいます。でもそうすると、マルコ7:19でイエスが全ての食べ物を清めたのであるというのはどうなるんのでしょうか。ここも全ての人が清いと言う意味なんでしょうか。18節から23節までを通して読むと、口に入る物では汚れない、口から害になる推論が出るから全ての食べ物は清いのだと言っているので、このこと事態が、ペテロから害になる推論が出ている証明になってしまっているのですがどうなってるんでしょうか。
この口から入る物と出るものについての例えを言うに至った経緯がマルコ7の5節から読むと、神の掟を押しのけて人間の命令を教理として教えることについて言い方を変えて口から害になる推論が出るのだと言っているのでここは絶対にペテロは食べ物をイエスが清めたことを理解していなければいけないと思うんです。ほふって食べなさいという意味が全ての人が清いというなら、巧妙にも神の掟を押しのけて人間の教理を教えるをペテロ自ら証明してしまっているとしか読めないのです。どうなってるんでしょうか。

御返答感謝

投稿者:
匿名
投稿日:
2015年03月21日 22時52分08秒

御返答を感謝致します。キリスト改革派教会の信徒になった以上は、この教会の規則を守らないといけないということはわかりました。他の教派の場合でも同じなんですね。当分、私は隠れキリシタンならぬ隠れユニテリアンとして過ごさねばならないようです。牧師先生に打ち明ける勇気は今のところありません。どうしたことか、ある時から聖書を読んでいて、どうしてもイエスさまを神さまとは別だと感じるようになったのです。特に第一テモテ2章5節の「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」というみ言葉が決定的でした。神さまは唯一です。イエスさまも神さまなら唯一ではなくなります。イエスさまは神さまと人間との中間におられるお方です。だから「まことの神でありまことの人」でもあるといわれるのですが、本当は「神ではないが人でもない」と否定的に言うべきだと思います。言わば、天使のような存在とでもいうべきでしょうか。人の子って超人のような存在だそうですね。それに、イエスさまが神さまだったなら、「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。」(ヨハネによる福音書8章54節)とか、「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」と告げなさい。』」(同、20章17節)などとはおっしゃらなかったことでしょう。それが自然な見方です。弟子たちにとって神さまはイエスさまではなく、イエスさまご自身が「父」と呼んだお方であることが明示されています。さらにイエスさまは、「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」(同、14章28節)と言って、「神=父」はご自分より上位であることを説き明かしておられます。これが私たち無学な信徒が聖書を普通に読んで素直に感じ取ることであり、それが真実だと思います。神学者の先生方は難しく考えすぎていると思います。どうして、イエスさまと(父なる)神さまとを対等だと信じることができましょう?その必要もありませんよね、聖書は全体としてイエスさまが(父なる)神さまに従属しておられることを証言しているからです。逆に、イエスさまを神さまとして語っている箇所もあるにはありますが、極めて少数であり、圧倒的多数は父なる神さまこそは唯一の神であり、子なるイエスさまもこの神さまに従っておられるということを証言しています(第一コリント3:23、8:6、11:3、15:28他)。どうして、この多数証言を軽視して少数証言をもとに、三位一体などの教義を構築する必要があったのでしょうか?そしてその必要は時代的制約によるものであり、現代ではもはや不要ではないのでしょうか?

「匿名」さんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年03月19日 14時51分01秒

「匿名」さんのご指摘のとおり、私たちがその流れをくんでいるカルヴァンが、『三位一体論の誤謬』という本を記したセルヴェトスを異端者として焚刑に処すことに関わった事実が、残念ながら、あります。4世紀以来、教会と国家が結びつき、国家権力による異端処罰が行われてきてしまいました。それは宗教改革が起こった16世紀にもまだ続いていました。この結合の鎖は宗教改革によっても断ち切られず、カルヴァンはこの時代のやり方で対処してしまいました。これは良心の咎めを覚える出来事です。のちに、カルヴァンの流れをくむある人々は償罪の記念碑を建て、次のような碑文を刻みました。
「我らの偉大なる改革者カルヴァンの忠実なまた心からなる追従者、われらは、
とはいえ、彼の時代の誤謬であったところの誤謬を有罪とし、
また宗教改革の真の原理にしたがって、良心の自由に固く立ち、
1903年10月27日、このmonument expiatoire(償罪碑)をたてた」。
(訳文は田中剛二『カルヴァン その人と思想』にあるものを参考にしました。)

日本キリスト改革派教会が採用している『ウェストミンスター信仰告白』は17世紀半ばに記されたものですが、そこまで時代がくだってもなお、「すべての冒とくと異端がはばまれるため、(中略)国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である」としていました(23章)。このような教会と国家の結合を含む章句を削除し、改訂が加えられたのは、1788年になってからでした。今の条文では「どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきでない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」となっています。

「いろんな神の見方や信じ方があってもよいのではないでしょうか?」という点については、実際、今、いろいろな宗教が「あり」、キリスト教にもたくさんの教派が「あります」。キリスト教教理についての議論は、聖書に基づいて、真理を求めて行われていきます。「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか」(ヨブ11:7)という御言葉もあるように、これは終わることのない営みです。この議論が、純粋に真理を求める営みでありつづけることができればよいのですが、異なる説が出てくると、いつしか相手を攻撃することにすり替わってしまいます。神学者や牧師は、その罪に陥らないように、祈りつつこれをなすことが求められていると思います。信じる側・救いを求める側のことを申しますと、どこから入るか、どこにとどまるかは全く自由だと思います。但し、いったんその教派・教会に属したならば、その教派に加入するときになした「誓約」に違反するようなことを言ったり・したりしますと問題になる、ということは、共同体のルールとしてご理解いただけたら、と思います。

一つの疑問

投稿者:
匿名
投稿日:
2015年03月17日 15時29分37秒

ヨアブさんとMegさんの議論の経過をみていました。言語についてはあまり関心ありませんが、一つだけひっかかったことがあります。それはMegさんの返信にある「『まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた』という順序ではない、ということです。また、私たちの信じている神は、教理で固定化されるようなお方ではなく、『今も生きて働いておられる方』である」云々という結論部分です。
だったら、なぜキリスト教は、三位一体などの教義を信じない者は異端だと言って排除してきたのですか?火あぶりにして殺された人もあります。神が教理で固定されていないなら、いろんな神の見方や信じ方があってもよいのではないでしょうか?それを一つに固定したことで争いも起きてきたのではないでしょうか?
キリスト教として一致すべきところが当然、あるべきでしょうが、それは三位一体のような教義でなければならないのでしょうか?教義だとしても、もっと幅のあるものでもよいのではないでしょうか?

お手数をおかけしました。

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年03月14日 22時41分43秒

まことにお手数をおかえし、詳しいご回答に感謝申し上げます。私がこの掲示板で提起した問題というのは、私たち一般信徒は難しい神学のこと、ましてや聖書言語学のことには精通していないので、牧師先生方がブログや御著書で発信しておられることに多大な影響を受けるわけです。だからこそ、牧師先生方は責任をもって書いてほしいのです。その点でキリスト改革派教会の先生方は私個人は信用しているわけですが、それ以外の教派の先生方で、十分な学問的裏付けもないのに教義を聖書に読み込んで、不確かな説をまことしやかに語る人もおられると聞きます。「エハド」についても、旧約聖書における用例だけを調べても、本当に「多」を包含する「一」といった意味を持つと言えるかどうかは大いに疑問です。「三」つの位格を包み込む「一」を意味するなどというのはそれこそ教理に合わせた解釈ではないかと疑われても仕方ないでしょう。ふつうは「エハド」は「(唯)一」という意味だと記されているからです。実際、私は旧約聖書学の先生方にもこの点を質問してみましたが、どなたも水草先生の説明には同意なさいませんでした。ご指摘のとおり、「『まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた』という順序ではない」のに、これが逆転して、三位一体の教理を聖書的に根拠づけるために、一般信徒にはよくわからないヘブライ語の知識などを用いて、さも聖書が「三位一体」を明示しているかの如く説明するわけです。しかしこの点はいかに正統的立場の教会に属す信徒であっても慎重でなければならないと思っています。このような態度がいつしか教理を異端審問のための踏み絵のようにして、イスラム教やユダヤ教など他宗教への偏見を助長することにもつながるおそれがあると思うからです。現代は多様性を尊重する趨勢になっていると思います。特に宗教対立が大きな問題となっている現状ではなおさらでしょう。
私は水草先生よりもむしろ、ウィリアム・ウッド先生の御著書での「エハド」についての書き方の方に問題を感じています。学問的根拠が極めて希薄に感じるからです。「三位一体」という教理は尊重するものの、それとこれとはまた別だと思います。学問的には中立公平であるべきだと思います。その点で私は、聖書の言語によって三位一体の教理を根拠づけることはできないのであり、教理の正当性の根拠はそのような客観的なレベルではなく各人の信仰にのみ存するのではないかと思う次第です。そして牧師先生方は学問に対してもっと誠実かつ厳密な姿勢で臨んでほしいと思います。いい加減な知識を本などに書いて無知な信徒を惑わすようなことは避けてほしいと思います。そういう牧師は、すくなくともキリスト改革派教会にはおられないことはわかっています。他の教派にはいないとはいいきれません。そこに「福音派」の危うさもあると存じます。説教で、けっこういい加減なことを言っているのを見聞きするからです。これでは信徒は迷惑します。神学教育はきちっと受けてから現場に出てほしいものです。

ヨアブさんへ(大変遅くなりました)

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年03月14日 19時39分57秒

「エハド」の件につき、回答が大変遅れまして、申し訳ありませんでした。 前回、ヨアブさんの質問に回答をしてくださった先生が水草先生に問い合わせてくださいました。 ヨアブさんには、水草先生の書かれた文章が「『エハド』の『言語学的』な説明を通して『三位一体の教理』を『根拠づけ』ようとしているかのように思えます」ということでしたね。 水草先生のおっしゃる「言語学的に」の意味は、「旧約聖書での『エハド』の用例をつぶさに調べてみた上で」ということのようです。
ヨアブさんと同じように疑問を持たれた方がいらっしゃるようで、水草先生はご自身のサイトでこの件につき、追記しておられます。ご紹介いただきましたので、ご覧になってみてください。 →http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/touch/20111224/p1#c

誤りかどうか、というご質問についてですが、水草先生は、三位一体の神さまを思いながら聖書をお読みになり、「一」という言葉(原語)について黙想を深めていかれた結果、三位一体論的な要素が見え隠れしている、ということをおっしゃりたかったようですので、それを誤りだと言って完全に否定することはできない、ということです。ただし、「言語学的に」というおっしゃり方で誤解されたのはヨアブさんだけではない、という点を考えますと、水草先生に書き方をもう一工夫していただけるとよいのかもしれません。

しかし、ヨアブさんのあとに、有又屋さんからも、三位一体に関するご質問をいただき、そのご質問とも共通すると思われるのですが、押さえておきたいことは、次のことです。
つまり、「まず三位一体論という教理があって、それから聖書が書かれた」という順序ではない、ということです。
また、私たちの信じている神は、教理で固定化されるようなお方ではなく、「今も生きて働いておられる方」であるということもふまえつつ、共々に、日々、聖書の言葉に聞くことができたら、と願っています。

御返答ありがとうございます。「エハド」の件は?

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2015年01月17日 22時31分53秒

御多忙のところ、神学校としては最高水準として名高い神戸改革派神学校の先生に直々に御返答いただき光栄です。心より感謝申し上げます。貴重な学習の機会となりました。私のみならず、このサイトの閲覧者の中にも同様の方々がおられることでしょう。ところで、「エハド」に関する質問にもお答え頂ければ、この掲示板の閲覧者の中で私と同様の疑問を持つ者が救われます。これは素人では判断がつかない、しかし言語学的説明としては軽視できない重要な問題です。本当に「エハド」というヘブライ語が「三位一体」の教理の根拠となるような「複合的」あるいは「多様」な意味を持つ「一」なのでしょうか?お時間が許されます時には、なにとぞ宜しくお願い申し上げます。

ヨアブさんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2015年01月17日 18時41分15秒

ヨアブさん、
大変お待たせいたしました。
神戸改革派神学校で教理史を教えてくださっている先生より、ご質問についての回答を以下のようにいただきましたので、ご紹介します。
「ややこしくならないように、質問者様の質問内容に限っての論述です。正統的三位一体論の形成過程やさらに本格的な教義学的な解説を必要とされる場合は、別の機会に」とのことです。
よろしくお願いいたします。

---------以下回答文----------

① 旧新約聖書を通じて、聖書の言明は、明確に「主なる神は、お一人である」です。

② 三位一体の教理の一は、ここに基づきます。

③ 質問者様の「三位一体の『一体』は、『父、子、聖霊』の三位格の相互関係を指し、神の内的な統一性を意味するのではないですか」との理解と指摘は、正しいと思います。

④ しかし、同時に、全聖書の啓示する「主なる神の一性」の主張は、単に、数的な意味での排他性としての一性のみならず、根本的に、真の生ける神様の存在の超越性、主権性の告白ですから、「他の神々との外的関係はないのではないですか」とのご質問に関しては、聖書の語る神は、異教の神とは、存在の仕方自体が、まったく異なるという意味での「一性」、独自性の主張が、ここにあると思います。
すなわち、啓示の進展の中で、明らかにされる、三位一体の神の独自の存在のあり方は、すでに、旧約以来の「一性」の中にでも、込められていたと、信仰的、神学的には、語ることが許されると思います。そこから、「唯一の神の『一』と『三位一体の』『一』とは区別されるのではないですか」との問いにも、まず、明快に「そうです」。

そして、「しかし」と以下のような説明を付加して、つなげることが出来ると思います。

⑤ (1)言語学的に、三位一体の神の一性<ミア・ウーシア=同一本質性、神としての本質の唯一性>を本質、実体、存在と理解、訳したとしてもそれが、アリストテレス哲学的意味での存在論としての「一」理解ならば、聖書的三位一体の神論の理解とは、結局、違う神観に至ることになります。
また、(2)神としての本質を共有する三位格間(トレイス・ヒュポスターセイス)の統一的一体性の概念の「一体性」と理解したとしても、聖書の神様は、存在の唯一性と共に、存在の永遠のあり方が(このこと自体が、唯一の神を意味するのですが)、互いの位格間で、本質を共有するがゆえに、その本質を「他の位格を前提とする」「愛」と語ることが出来る神様です。生きた愛と永遠の命の交わりをお与え下さる神は、お一人であると共に、その存在のあり方が、独自な三位格間の統一的愛の交わり(対他的起源関係においても、相互内在性においても)に生きておられる、という意味では、こちらの方の「一体性」もやはり、旧約以来の、「一性」の主張と矛盾せず、かえって、聖書の神の独自性の信仰的、神学的理解においては、結び合っていると解釈できます。

⑥ その意味では、他の神々とは、完全に区別される聖書の語る神の唯一性は、その存在の「一性」と共に、存在のあり方の独自性としての「三位一体性」も同時に、意味しているということが出来るのではないでしょうか。

結論として、質問者様の「神の『一性』と三位一体の神の『一体性』とは区別されるのではないですか」という問いと指摘は、正しいものであると同時に、以上のような神学的、いや、信仰告白的頌栄的省察の下に、告白されて来た内容に即して語るならば、さらなる含蓄を帯びて、深い理解に至るのではないでしょうか。

⑦ これは、教理史的発展の途上で生じた信仰告白的、教義的内容を、質問者の質問に即して簡略化したお答えに過ぎませんので、本格的に学びたい方には、国際的にも定評のある有益な神学書などを、今後、ご紹介することも出来ます。

----------回答文ここまで---------

旧約の神YHWHは、「父なる神」それとも「三位一体の神」、どっちですか?

投稿者:
有又屋
投稿日:
2014年12月29日 14時47分44秒

旧約聖書でイスラエルの神とされている神聖四文字で表されるところの神(エホバ、ヤハウェなどの呼称)は、新約聖書ではイエス・キリストが「父」といわれた神ですか?それともキリスト御自身も第2位格の「子」なる神として含まれる「三位一体の神」ですか?どちらなのでしょうか?
たとえば創世記1:26の神の「われわれ」という1人称複数形の主語が「三位一体」を表すという伝統的な理解でいえば後者にあたり、同じく創世記18章でアブラハムを訪ねてきた三人の男を三位一体の神とする伝統的な理解でいえば前者にあたると思われます。ヤハウェはこの三人の内の一人であり、他の二人は使いだからです(19:1)。
さらにマルコ12章(および並行記事)などに記されたダビデの子キリスト論への反論の場面で引用されている詩篇110:1の理解では、「主=ヤハウェ」と「わが主=キリスト」とが従属的に区別されているので、これも前者にあたると言えます。もっとも「三位一体の神」という教義は後代のキリスト教において成立したものではありますが、聖書にその根拠があるという以上、「ヤハウェ=三位一体の神」という解釈が成り立つ聖書箇所がある程度は認められて然りと思われます。なぜなら、「ヤハウェ」が「父」の位格だけなら、「子」と「聖霊」の位格は旧約時代に神として啓示されていなかったことになるからです。「啓示の漸進性」というドグマもありますが、この聖書的根拠もヘブル1:1~2くらいで希薄です。数少ない聖句をもって聖書全体の教理として体系化することは大いに無理があると言えるでしょう。
さて、旧約の神ヤハウェは、新約においては「父」なる神のみを指すのか、あるいは「子(=イエス・キリスト)」と「聖霊」とを合わせた三者を指しているのでしょうか?

確認のための再質問です。

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年12月20日 18時14分15秒

クリスマスが近づき、特に牧師先生方は御多忙のことと存じます。先日は御返答を感謝致します。非常に専門的でしかもわかりやすく信徒にとって貴重な学びとなりますので、これを閲覧する他の多くの兄弟姉妹のためにも、さらに具体的に例文をあげて確認させて頂きたく存じます。お時間が許される時はどうか再度の御協力を心よりお願い申し上げます。

御返事の中で私が特に重要だと思うのは次の箇所です。
[三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて、父なる神、子なる神、聖霊なる神について、旧新約合わせた聖書全体が表出するものを、他の教えと慎重につき合わせて検討しながら総合したものです。申命記6章4節を例にとれば、そこにある「アドナイ・エハド」は釈義的には「主は一つ」というだけであって、その「一つ」の内に多様性や重層性を含むしるしはどこにもありません。むしろ、申命記の文脈で言うならば、多神教の土地(カナン)にあって「主は一つ」との明確な信仰告白を打ち出したのが、この言表だと理解できます。ですから、ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。]

(確認その1)
[三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて・・・]という点では、以下の2つの例文では、まさに「エハド」の「言語学的」な説明を通して「三位一体の教理」を「根拠づけ」ようとしているかのように私には思えます。すなわち「エハド」という言葉は単なる「一」ではなく、「多」を包含し得る「一」であるから、唯一の神の「一(エハド)」には、「父」のみならず「子」および「聖霊」の三つの位格を含むのだ・・・という御説のようですが、「ヤヒード」と「エハド」とを比べて後者をこのように三位一体論と結びつけることは、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけようとすることですから、これは誤りとみてよろしいですね?どうぞ明快にお答え願います。

(1)小海キリスト教会 水草牧師の「神を愛するための神学講座」より
[聖書は、神には三つの位格があることを啓示します。聖書の啓示は、旧約時代から徐々にベールを外されて来ましたが、新約聖書にいたって最も明白にこの真理は明かにされます。しかし、旧約聖書でもすでに、神には複数の位格があることが暗示されています。旧約聖書がかかれたヘブライ語には「1」を意味することばが、二通りあります。ひとつは「エハド」であり、もうひとつは「ヤヒード」です。「ヤヒード」は、単純に「一つ」「ただ一つ」という意味です。たとえば創世記22:2「あなたのひとり子イサク」と用いられたり、詩篇35:17「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。」と一つしかない「命」の意味で用いられます(他に詩篇22:20、アモス8:10)。他方、「エハド」は、「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときに用いられる言葉です。例えば、出エジプト26:6「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。」、同26:11「天幕をつなぎ合わせて一つとする。」、創世記2:24「ふたりは一体となるのである。」同34:16「・・・私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。」、エゼキエル37:17「その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。」などはそうした用例です。では、冒頭のみことば「主はただひとりである」の場合にはどちらが用いられているでしょうか。実は、「エハド」が用いられているのです。「主はただひとりである。」という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性が暗示される唯一性を示すエハドが用いられているのです。ここに、聖書を通して語られる唯一の神のうちには複数の人格があるという神秘が暗示されています。神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して「われわれ」とおっしゃいます。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・・』」(創世記1:26)「私は、『だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。・・・」(イザヤ6:8)ここで神はご自分について、「われわれ」と言っておられます。唯一の神の内に交わりがあるのです。]
http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BF%C0%A4%F2%B0%A6%A4%B9%A4%EB%A4%BF%A4%E1%A4%CE%BF%C0%B3%D8%B9%D6%BA%C2%A1%CA%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3%A1%CB#content_1_32


水草牧師は、「小海キリスト教会 牧師所感」というブログの方でも同様のことを述べておられます。「神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性を内包する一性を示しうるエハドが用いられているのです。三位一体を暗示するとまで断言はしませんが、興味深い現象ではあります。」と、こちらでは「三位一体を暗示するとまで断言はしませんが」とことわってはおられますが、事実上、上掲の文脈では「三位一体」の聖書的根拠の一つとして指摘されていることは客観的にみて否定できません。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111224/p1


(2)ウィリアム・ウッド著『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)より
[「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」三位一体なる主なる神だけが神であり、ほかに神は存在しない。主だけが永遠から存在され、全知全能なるお方であり、人類の造り主であり、救い主であられる、というのが三位一体論者の立場です。しかし、神の独一性を主張しながら、それが複合的な独一性であると信じます。これに対して、エホバの証人は、「神はひとりであると書いてあるのに、1+1+1=3ではないか」と言います。つまり、父も子も聖霊も神であるなら、神が三人いることになるのではないか、というのです。しかし、「ひとり」、あるいは「ひとつ」ということばは、聖書の中では、単一個体と同様に、複合的な統一体をも指します。](p34~35)

ここでも文脈的にみて「エハド」について説明されていることは明らかです。私はエホバの証人でもなければその支持者でもないので、本当にヘブライ語の「エハド」に言われているような「複合的」な「一」としての意味があるとするなら、そしてそれが「三位一体の教理」の聖書的根拠として、キリスト改革派教会のような高度な神学を営む教派・教会の先生方も認めることであるなら、私も受け入れることに何ら抵抗はないのです。
しかし私が気になるのは、このようにまことしやかに言われる「エハド」についての説明が、どこまでヘブライ語の正しい学識に基づいているのかということです。それが私の質問の動機です。私以外の兄弟姉妹も、上掲の2つの例文にあるような「唯一の神」の「一(エハド)」についての説明を見聞きすることがあろうかと思います。そしてそれを真に受けて信じ込むこともあるでしょう。それが必ずしも信仰上の大問題になるとは言えませんが、結果よければすべてよしとは言えないこともまた事実だと思います。指導者は誠実であるべきで、特に聖書語学に関しては、いい加減な情報や主観的な考えによって伝えるべきではなく、自ら学問を通して得た客観的知識に基づいて教えるべきだと思うからです。

それともう1点、[ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。]という御教示に関して確認のため再質問させて頂きます。
日本基督教団の信仰告白では「主イエス・キリストによりて啓示せられ,聖書において証せらるる唯一の神は,父・子・聖霊なる,三位一体の神にていましたまふ。」とあるように、「唯一の神」の「一(エハド)」と、「三位一体」の「一」とは果たして同義であるのかも疑問です。「一体」の「体」はギリシャ語で「ウーシア」、ラテン語で「スブスタンティア」あるいは「エッセンチア」であり、「実体」とも「存在」とも「本質」とも訳される言葉です。すなわち「一体」とは「父、子、聖霊」の「三位格」の相互関係を示すと言えます。従ってここでの「一」は神の内的な統一性を意味し、他の神々との関係における外的な意味はないと思いますがいかがでしょうか?つまり「唯一の神」の「一」と、「三位一体」の「一」とは区別されるのではないでしょうか?

以上、長くなり恐縮至極ですが、教理の学習においては私だけではなく他の兄弟姉妹方にとっても大切な学びの機会になると確信するので、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。在主

ヨアブさんへ

投稿者:
Meg
投稿日:
2014年11月28日 16時33分02秒

ヨアブさんへ。
管理者です。
ご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。
ヘブライ大学で学ばれたことのある牧師にヨアブさんのご質問を見ていただき、ヘブライ語に関するご質問については、以下のようにお返事をいただきましたので、お伝えいたします。
補足も書き込んでくださっていましたが、それを含め、教義学的な点については、また別の先生に問い合わせていますので、その点につきましては、今しばらくお待ちくださいませ。
------以下回答文------
ヘブライ語で「エハド」は数詞の「1」、「ヤヒド」は「唯一の、単一の」という形容詞で、
後者は「たった一人の子(自分)」との含意があると見受けられますが、神にこれが適用される例はありません。
三位一体の教理は、「1」についての言語学的な分析によって根拠づけられるものではなくて、
父なる神、子なる神、聖霊なる神について、旧新約合わせた聖書全体が表出するものを、
他の教えと慎重につき合わせて検討しながら総合したものです。
申命記6章4節を例にとれば、そこにある「アドナイ・エハド」は釈義的には「主は一つ」というだけであって、
その「一つ」の内に多様性や重層性を含むしるしはどこにもありません。むしろ、申命記の文脈で言うならば、
多神教の土地(カナン)にあって「主は一つ」との明確な信仰告白を打ち出したのが、この言表だと理解できます。
ですから、ここから直接導き出されるのは、神の唯一性のみです。
つまり、「三位一体」の「一」の部分だけがこの聖句に支えられている、ということができます。
その他に、聖書には父なる神についての教説があり、子なる神であるキリストの教説があり、聖霊なる神についての教説があって、
それらの三位格がそれぞれ独立しながらも切り離し難い関係に結ばれていて、一つの救済の業に従事していることが、聖書から読み取られます。
それで神は三位一体である、との教会の解釈が成立し、古代教会の神学論争を経て、三位一体の教義が確立します。
そのようにして教会の神理解が確立すれば、そこから「アドナイ・エハド」と読むときに、
その「エハド」が意味するところは「三位一体」という多様性を含むと述べることができるようになります(神学的解釈)。
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前回の質問の補足

投稿者:
ヨアブ
投稿日:
2014年11月28日 15時55分12秒

前回の質問の補足です。文中の「複合的独一性」の直接の参照先は、ウィリアム・ウッド著『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社 1990年初版)の34頁で、その記事の典拠と思われるのが同書の82頁で引用されているエドマンド・フォートマンなる人物の『三者一体の神』と訳されている著書であり、その原題を( )の中に表記しています。