みんな違って、みんなで一つ
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章17節
みなさんは、顔認証システムというものを御存じでしょうか。スマートフォンなどのロックを解除するのに、パスワードを入力するのではなくて、予め登録しておいた持ち主の顔を近づけることで本人確認をするというシステムです。パスワードですと、うっかり忘れてしまったり、誰かに知られてしまう危険があります。それに比べて顔認証だと、自分の顔ですから失くすことはありませんし、他の人の顔では決してロックを解除出来ないという安心感があります。
先日のことです。うちの子どもが、自分のスマホも顔認証で開く設定にしていると言うので、うちの妻が冗談半分で「私の顔で開いたりしてね」とそのスマホを借りて自分の顔を近づけてみました。すると何とロックが解除されたのです。子どもも妻も「えー!!」と驚きました。ただ二回目以降は認証されなくなったので、一時的な誤作動だったのかもしれません。妻と子どもとは、似ていると言われることがありますが、そっくりという訳でもなく、年齢も違います。技術の進歩は目を見張るものがありますが、やはり万全ではないのだなあと思いました。
このように、機械には人間の違いが識別出来ないことがあります。けれども、人間はどんなに瓜二つに見えても、一人一人全く違う存在です。
先程お読みしました聖書の箇所、「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか」、「もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」というのは、なかなか面白い表現です。目には耳と違った特徴と働きがあり、耳には目とは違った特徴と働きがあります。異なった部分が集って一つの体を形成しているのです。それぞれが違う働きをするからこそ、体全体が有効に働くことが出来るのであって、全体が目だったら確かに困ってしまいます。これは、わざわざ言うまでもないくらい、当たり前のことです。
この言葉を書いたパウロは何故こんな当たり前のことを手紙に記したのでしょう。それは当時の教会の問題を、そして私たち人間の問題を指摘するためでした。
私たちは、顔だけではなく、性格も生まれ育った環境も、これまで歩んできた道のりもみんな違います。得意なこと、不得意なこと、好き嫌いや感じ方考え方など、それぞれに異なります。
そのようなお互いの違いを理解し、受け入れるのは、実はなかなか難しいことです。また自分自身の個性や特徴を受け入れることも簡単ではありません。
私たちは、どうしても自分に自信が持てない。それでなるべく目立たないようにして、みんなと同じであることに安心しようとすることがあります。また自分と異なる考えや感じ方を受け入れることが出来ず、相手に自分の考えを押し付けたり、違う相手を排除したりしてしまうこともあります。
人と自分を見比べて、「自分はあの人のようには出来ない」と落ち込んだり、「あの人はあんな才能に恵まれていていいよなあ」とひねくれたりします。そうかと思えば、自分はあの人と比べてこんなことが出来ると優越感に浸ったり、自分と同じように出来ない相手を見下したりします。
顔も性格も何もかも他の人と同じであれば、そのような摩擦や対立は生じないかもしれません。けれどもそこには何の新鮮味も面白さもないでしょう。顔認証システムだって成り立ちません。得意なものも苦手なものも全員同じであれば、全員が得意とする一つの方向にしか進まなくなります。変化や広がりがなくなってしまう、面白みのない世界になってしまうのではないでしょうか。
一方で、「みんな違って、みんないい」という言葉があります。それぞれに個性があり、それぞれが素晴らしい。そう言える面もあるでしょう。けれどもみんながバラバラに自分勝手に好きなことをする、というのが良いのでしょうか。聖書はそうは教えていません。
先程お読みした続きの箇所には、「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」とあります。「キリストのからだの一部である」ということに意味があると言っているのです。
キリストの体の一部であれば、「あなたは足だから手のような働きが出来ない」、「役に立たないから要らない」、ということにはなりません。それぞれがかけがえのない存在として神様に造られ、その人には特別な固有の役割が与えられているのです。
私たちは本当の意味で自分を受け入れることが出来ない、他の人を愛し・尊ぶことが出来ないものです。そのような私たちを救うためにイエス様は来て下さいました。イエス様を信じる時、私たちはイエス様に結びつき、キリストの体の一部とされるのです。イエス様によって一つでありながら、それぞれの違いを活かし合って生きる、そしてイエス様の素晴らしさを共に表わし喜ぶ、そのように生きることが出来るようにされているのです。