ここは広い場所

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聖書の言葉

イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。

旧約聖書 創世記 26章22節

藤井真によるメッセージ

この御言葉にはひとつの思い出があります。今から2年前(2007年)、私が神学校を卒業した時に、ある先生が贈ってくださった言葉だからです。これから伝道の現場に遣わされていく卒業生たちに向けて、「広い場所」という言葉を心に留めてほしいと言われたのです。

「レホボト」というのは、「広い場所」という意味です。どうして、「レホボト」という言葉を覚えてほしいと言われたのでしょうか。それは、今日、私たちが生きるこの世において、広い場所を見出すことが、とても難しくなっている現実があるからです。

「広い場所」というのは、土地の面積の広さ、あるいは実り豊かな地というふうに理解することもできますが、先生は面積の広さのことや、あるいは教会を大きくしなさいと語られたのではありませんでした。「広い場所」という言葉が本当に意味すること、つまり、神さまの祝福をいつも覚えて、御言葉を語ってほしいと言われたのです。

神さまの祝福を表わす「広い場所」という言葉は、このように言い換えることもできると思います。それは「居場所」ということです。居場所というのは、そこに居ることができる場所です。そこに居てよい場所です。だから、反対に、広い場所が存在しないというのは、居場所がないということです。そして、自分の居場所がないということは、自分の存在の価値が見失われているということでもあります。「自分が生きていてよいのだ」という意味が分からなくなっているのです。そこには生きる希望も喜びもありません。あるのは深い絶望だけです。瑞々しいいのちではなく、渇き切った死が支配しているかのようの世界です。

なぜ、私たちの周りにはそのような世界になってしまったのでしょうか。この世的に考えますと、広い場所を手にするというのは、富や権力を手に入れて土地を広げていくということです。世界の歴史を振り返ってみましても、人々は、場所を奪うことにおいて、広い場所を獲得してきた事実があります。今日まで繰り返されてきた戦争においても、勝った国は、敗れた国の領土を奪い取り、土地や場所を広げてきました。このことは戦争だけに留まりません。人は自分が生きるのに心地のよい場所を手に入れるためには、他者を傷つけてでさえも、手に入れようとしてしまいます。そして、自分の領域に、人を入れることを拒む大きな囲いを作ってしまいます。私たち人間というのは、そのような誰かのものを奪う仕方、あるいは退ける仕方で広い場所、居心地のよい場所を手に入れてきたのです。

しかし、そのことがどれだけの人々を悲しませ、苦しめてきたことでしょうか。居場所を奪われた人たちの痛みの声が聞こえてきます。それにたとえ、富や権力を手に入れたとしても、どこか満たされないという思いの中で、狭い場所に追いやられている人たちも多いのです。居場所を奪われても、奪っても幸せになるとは言えないのです。そうしますと、人間にとって本当の幸せが何なのか分からなくなってきていると言うことができます。

だから、互いや自分自身を傷つける仕方ではなく、平和で、心から喜べるかたちで、居場所がほしいと願っている人は多いのです。神さまは、そのように居場所を見失っている私たちに応えてくださるお方です。「ここは広い場所」「ここがあなたの本当の居場所」と告げてくださり、祝福をあなたの中に創り出してくださるのです。

ところで「レホボト(広い場所)」にはひとつの特徴があります。ただ広くて、居心地が良いというのではありません。広い場所から湧き出るものがあるのです。イサクは掘り当てた井戸を「広い場所」と名付けました。井戸からは水が湧き出るのです。渇きの中にある者にいのちを与える水です。主イエスも愛に渇き切ったひとりの女性にこのようにお語りになったことがありました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)

私は「レホボト(広い場所)」という言葉を心に留めて、神学校を卒業し、教会に赴任いたしました。赴任して少したったとき、あるご婦人の教会員のご主人が病気で入院をされたことを知らされました。容態は決してよくありませんでした。いつ召されてもおかしくないと言われて、どうか癒されるようにと祈り続けたのです。

入院して、しばらくたった頃のことです。その方が洗礼を受けたいと願い出られまして、病床洗礼を授けていただき、聖餐の恵みにもあずかりました。その日には多くの教会員が駆け付けてくださいました。小さな部屋がさらに小さくなりました。けれども、そこに天が開け、神が生きておられることの幸いを共に味わうことができました。小さな病室は、神の恵みに満ち溢れる広い場所になったのです。

それから、幾度もその方のところを訪問し、一緒に聖書を読み、祈りを捧げた日々を忘れることはできません。きっと、苦しくて、体も痛かったに違いなかったと思います。けれども、いつも明るい声で私が来るのを迎えてくだいました。そして、家族の方や神さまへの感謝の言葉を口にされながら、天に召されていきました。神さまはこの方の中に、本当の広い場所を与えてくださったのだ。渇くことのないいのちの希望に生かしてくださったのだ、と神の言葉の力を知ることができた、幸いな経験でした。

たとえ死を前にしても、たとえ地上でのいのちを終えたとしても、神さまは広い場所を用意してくださるお方です。この広い場所からは、いのちの渇きを癒す水がいつも湧き出ています。主が共にいてくださることを信じるなら、たとえ、今、あなたが苦しく窮屈な場所に置かれていたとしても、そこは広い場所になるのです。

主イエス・キリストの恵みと平和が、この週もあなたの上にありますように。

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