ポイ活もいいけれど

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章23節-24節
いつからか「ポイ活」という言葉を聞くようになりました。丁寧に言い直すと、「ポイントを集める活動」ということになるのでしょうか。私たちの身の回りには、ポイ活をしている人で溢れています。私もその内の一人です。どんなポイ活があるのでしょう。例えば、スマートフォンの画面を開いて、広告の画像をタッチするだけでポイント貯めることができる。そんなアプリがあります。お店にチェックインするだけでポイントをもらうことができるもの。ウォーキングするだけで、電車で移動するだけでポイントをもらうことができるものもあるのです。アンケートに答えるだけでポイントをもらえるものもあります。また、お店で買い物する時は必ずそのお店のカードを持っていきます。100円分買えば、1ポイントもらえるとか、水曜日はポイントが5倍たまるとか、面白い仕組みになっています。ポイントをたくさん貯めると、貯まったポイントで買い物をすることができます。とてもお得な気分になります。びっくりするような話ですが、ポイ活で貯めたポイントだけで車を買ったとか、ついには、家まで購入することができたという話を聞いたことがあります。物価高の今日です。少しでも得をしたいという気持ちが分からないわけではありません。そういう意味で、地道にポイ活することもなかなか侮れないなあと思います。
私の息子が小さい時、彼はポイ活をして、お小遣いを貯めていました。お家のお手伝いをして、こつこつポイントを貯めていたのです。掃除をしたら10ポイント、パパのマッサージをしてくれたら50ポイントというふうに。やがて、お願いもしてないのに、自分から進んで色んなことをやり出すようになりました。そこで手にすることができるポイントの数も、自分で勝手に決めた数字です。「お風呂洗ってあげたから、100ポイントね」とか、「ゴミを出ししてあげたから、200ポイントね」というふうに。お手伝いしてくれるのは嬉しいですが、そんな調子でどんどんポイントが貯まっていくものですから、親としてはちょっと複雑な気持ちになりました。
大人も子どもも皆どこかで「ポイント」という言葉に惹かれてしまうところがあるのかもしれません。ポイ活ということに限らず、何かしらのポイントを手にしたいのです。それは得をしたいということだけでなく、良いふうに見られたいということの表れでもあるでしょう。例えば、自分に高いポイントをつけて、相手に低いポイントをつければ、互いの差は広がりますから、そこで優越感に浸ったり、相手を裁いてしまうこともあるでしょう。また、ポイ活をしていて最悪なのは、有効期限が来て、ポイントを失効してしまうことです。あんなにも時間をかけてたくさんポイントを貯めたのに、一瞬で水の泡になってしまうことがあります。ですから、いったん手にしたポイントを失うまいと必死になるのです。色んなことを計算しながら生きるようになるのです。私たちの人生はどうでしょうか。なかなか思いどおりにいかなかったり、計算どおりにはいかないところがあります。せっかく頑張ってやってきたことが無駄になったり、空しさを覚えることもあります。
最初に聖書の言葉を聞きました。そこには私たちは皆、罪人だということが語られていました。私たちにいのちを与えてくださった神様との関係が破れ果てているのです。ここに人間の根本的な問題があるのです。そして、この罪の問題を解決するために、どれだけ善いことをしても、どれだけ見事なことを成し遂げたとしても、つまり、どれだけ素晴らしいポイントをたくさん貯めたとしても、それによって救われるわけではないのです。私たちが積み上げたポイントによって、神様と仲直りして、平和に生きていくことができるというのではないのです。私たちに罪があるということは、神様の目からすれば、「あなたは0ポイントだ」と言われているようなものです。私たちの罪のゆえに、神の栄光を受けられなくなっているのです。普通、それはもう滅んでいくしかない絶望的なことなのです。
しかし、神様は何のポイントにも値しない私たち、日ごとにポイントを減らし、マイナスの数がどんどん増えていってしまっている私たちを、なお愛し続けてくださいました。「わたしの目にあなたは高価で貴い」とおっしゃってくださるのです。本当に驚くような話です。神様は1円も払う価値のない私たちのために、ご自分の御子イエス・キリストのいのちという代価を支払ってくださいました。神様にとってこれほど大きな痛みはありません。私たちは価値のないものに代価を支払うことなどできないでしょう。まして、これ以上にない最高のものを支払おうなどとは思わないでしょう。そんな無駄なこと、そんな愚かなことはないと思うからです。しかし、神様は痛みを覚えつつ、そのことを良しとしてくださいました。だから、イエス・キリストは、私たちが死ななければいけない本当の死を、十字架の上で代わりに死んでくださり、罪の中にいた私たちを救い出してくださったのです。私たちは本当の自分を取り戻すために、何の代価も支払う必要はありません。私たちが生きることができるようになるために、イエス・キリストがすべてのことをしてくださったからです。聖書は語ります。このキリストのゆえに、無償で、ただで、これ以上にない喜びと平安が与えられるのだと。あなたもこのイエス・キリストを信じて安心して生きてほしい。ラジオをお聞きの皆様の歩みが神様の恵みによって満たされますように。