自然界を制する、イエス・キリスト
袴田清子
- 神港教会 信徒説教者
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37節:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38節:しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39節:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40節:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41節:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
新約聖書 マルコによる福音書 4章35節-41節
主イエスは、朝から晩まで説教をなさった後、その日の夕方になってはじめて、向こう岸へ渡ろうと言われました。そこで、弟子達は漕ぎ出しました。主イエスは、舟に乗られるとすぐ眠られたようです。「艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」と、書かれています。ずっと教え続けられたので、疲れられたのでしょう。その疲れは、身体的な疲れ、精神的な疲れ、また、霊的な疲れであったでしょう。やっと、群衆を離れて、休める所に来て、熟睡されたのです。
通常の航海では1時間半もすれば、向こう岸に着くはずでした。しかし、この時は、激しい嵐が、襲って来ました。ガリラヤ湖は、嵐で有名だそうです。北東と東にそそり立つ無数の峡谷が、周囲の高地や台地、またヘルモン山の山頂からの風をとらえ、圧縮します。圧縮された風は、ガリラヤ湖で一気に解放され、湖の上を、恐ろしい勢いで吹き荒れるのだそうです。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されています。弟子の多くは、かつては漁師を生業としていましたが、この嵐には、命の危険を感じたようです。
ガリラヤ湖は湖ですが、「海」という言葉が用いられています。黙示録13章では、「海」は、悪魔の住むところ、神を冒涜する獣が立ち上がるところです。古代の世界では「海」は悪霊や悪魔の領域と考えられていたのです。
ほかの舟で付いて行った人達も、同じように命の危険にさらされていました。弟子達は、主イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」と、叫びます。これは「私達が滅びてもかまわないのですか」という意味です。弟子達の叫びは、眠っておられる主イエスへの、鋭い非難を含む悲壮感に満ちた叫びなのです。
すると、主イエスは、起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われたとあります。主イエスが、荒れ狂う湖に対して「黙れ」と命令されました。この「黙れ」という言葉は、主イエスが、会堂で、悪霊に憑かれていた人に対して、発せられた言葉と同じです。また「静まれ」とも命令されました。この「静まれ」という言葉は、動物に噛まれないように、口に轡(くつわ)をはめる、という意味の言葉です。主イエスは、悪魔の力に轡をはめて制するごとく、自然界に対して「黙れ、静まれ」と命令された訳です。
すると、風はやみ、すっかり凪になったとあります。通常は嵐が止むとき、徐々におさまるものです。しかし、命令されるやいなや、ピタリと凪になったのです。主イエスの権威ある命令によって、悪霊が黙らされ、悪魔的力に轡がはめられたかのように、一言で、自然界を制しておられます。
このことに弟子たちは恐れを抱きました。その恐れは、主イエスの偉大な力と権威を、直接、体験したことから生じています。それまでは、自分達の命のことで、恐怖にさいなまれていました。しかし、これは、自然界を制せられる偉大な力を、体験したことから来る、恐れです。「非常に恐れた」は、「大きな恐れを恐れた」と書かれています。つまり、それまでに、抱いたことのない程の恐れを抱いた、ということです。
主イエスは、弟子達に「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われます。主イエスは、御自分の本来持っておられる力を、少し発揮されただけでした。しかし、弟子達は、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったと書かれています。主イエスは「いったいどなたなのでしょうか」。
主イエス・キリストは、自然界をも、制する力と権威をお持ちの、神の御子です。そして、主イエス・キリストは、私達の罪の為に、十字架の上で、死んで下さった、救い主です。
この主イエス・キリストを信じる信仰が、皆様にも与えられるよう、願い、祈ります。
祈り
主イエス・キリストよ、あなたは、悪魔的な力を制し、自然界に対しても一言で制するほどの権威をお持ちの御方です。貴方は、最初からおられ、世界をお造りになり、今も治めておらえる神の御子です。また、私達の罪のために、私達の身代わりに、十字架に掛かり死んでくださった救い主です。
どれほど自然の驚異が迫って来ても、私達が、貴方を信じ、信頼することができるように、私達に信仰をお与えください。
主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。