誰でもわたしのもとに来なさい

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聖書の言葉

ダビデはそこを出て、アドラムの洞窟に難を避けた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた。(サムエル記上22章1〜2節)

旧約聖書 サムエル記上 22章1-2節

李哲敏によるメッセージ

先日、運転免許書の更新をしました。

私の住んでいる東広島では警察署で更新が可能なので、自分の休みの日に教会から歩いて5分のところにある警察署へ更新しに行きました。

警察所は国を問わず面白いところだなあと思います。地域の治安と住民を守るために存在するところなのに、そこに入るほとんどの住民は緊張するようになります。

警察所に入ったほとんどの住民は静かに、そして謙遜に話します。大きな声で話す人はだいたい職員です。

いつでも、だれでも行けるところであり、そのために存在するところなのに、警察所は決して気軽に行けない、行っても早く帰りたくなるところです。もちろんまた行きたいとも思えないところです。

今回、運転免許証更新で私は一つ気づいたことがありました。

それは、不平等に関することでした。

私は、今回も優良免許更新対象者でした。いわゆるゴールド免許への更新でした。更新のための講習時間は30分、費用は3,000円でした。

しかし、私の次に更新申込みをした方は2時間講習教育を受け、費用も私より高かったのです。その次の方は1時間の講習教育を受けました。

私は数年間事故や違反がありませんでした。他の方は、初更新だったかも知りませんし、事故や違反があったかも知りません。それぞれ理由があったからだと思いますが、運転免許更新という同じ目的で、ほぼ同じタイミングで警察署に入りましたが、そこでの滞在時間、かかる費用はそれぞれでした。

だからと言って、警察所が不条理だとか、不平等だということを言おうとしていることではありません。

法律の遵守という観点と現代の資本主義社会において、より努力したものとそうでない者、より持っている者とそうでない者の不平等は当然の概念でしょう。

私が警察所で経験し感じたのは、現代社会のいろんな側面の一部分にすぎないものかも知りませんが、同時に、これは場所・時代を問わずすべての人間社会を貫く共通の概念ではないかと思います。

この世に真の平等は果たしてあるんでしょうか?

性別、年齢、人種、経済的状況、健康状態、身分、職業、過去歴に関係なく、すべてのものに平等な社会、国、そのようにしてくれる人は果たしているのでしょうか?

どんな個人であれ、社会であれ表には出さず、言葉では言いませんが、雰囲気/表情/話し方などで他のグループと自分たちとの違いを比較して、平等の反対概念である区分、区別、差別を如実に表わすのがこの世ではないでしょうか?

今日の聖書箇所は、ダビデとその群れに関する話です。

今、ダビデは自分を嫉妬して殺そうとするサウルから逃げてアドゥラムという洞窟にいます。

決して安らかな状態でも、素敵な身分でもありませんでした。 場所さえ洞窟という不便極まりないところです。

ところが、そんなダビデのもとに人々が集まってきます。 まず、彼の兄弟たちから、父親の家の人々。 それに、 困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も。 そういう人たちが約400人で、ダビデは彼らのリーダーになりました。

これらの人々はそれぞれ異なる人生のストーリー、思いを持ち、またそれによって容易ではない状況に置かれた者たちです。

言い換えれば、あちこちから追い出された者、追われている者、行き先がない者、歓迎されない者、

すなわち、だれ一人居場所がない人たちでした。

そんな人たちがダビデの下に集まりました。

では、集まった理由は何でしょうか? ダビデを尊敬してから? その理由で来た人もいたでしょう。

しかし、私はそれよりも彼らがある噂を聞いたからだと思います。

その噂は「そこは誰でも受けてくれるんだって」という噂だったと思います。

ダビデが直接そのような話をしたとはしるされてはいませんが、おそらくそのようなダビデの噂を聞いた人々が集まり、その数が400人ほどでした。

ところで、果たしてそのうわさを400人だけが聞いたとは思いません。

もっと多くの人が聞いたと思います。多くの人々がダビデの噂を聞きましたが、

ダビデの下に集まった400人は、聞いたそのうわさを、信じて、動いた者。ダビデのもとに行った人たちです。

行く前まで色々な思いがあり、それを確かめるために調査や予測をしたかもしれません。そこで人々から色々なアドバイスがを聞いたかもしれません。

しかし、その噂を聞いて、信じて、足を動かしてダビデに行くと、ダビデは彼らを受け入れ、彼らはダビデの人、ダビデの仲間、ダビデの家族になりました。

どこにも居場所がなかった彼らに新しい居場所が与えられました。

新約聖書のマタイによる福音書で、イエス様はこのダビデの話と似ていますが、より直接的で積極的に人々を招いておられます。

マ11:28-29

"疲れた者、重荷をおうものは誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

ダビデが直接「誰でも私のもとに来なさい」と言ったのかどうかは聖書に書いてないので分かりませんが、

イエス様は直接「誰でも私のもとに来なさい」とおっしゃいました。

ダビデよりもっと大きくて偉大なメシアが、積極的に人々をあなたのもとへ招いておられます。

イエス様には差別、不平等がありません。

男でも、女でも、子供でも、老人でも、元気じゃない者でも、障がいや病を覚えている者であれ、

お金があってもなくても、職業が何であれ、身分、国籍に関係なく、

イエス様の招きの言葉を聞き、信じ、御前に進み出た者をイエス様は喜ばれ、おっしゃったように、真の平安をくださいます。

イエス様に真の平安があります。

その平安はこの世が与えることのできない平安です。

イエス様が下さるまことの平安とはどんなものでしょうか?

お母さんの胸に抱かれてすやすやと眠っている赤ちゃんの姿。

赤ちゃんにとって、母親は宇宙全体であり、大きな盾、すべての供給者です。そんな母親の懐にいる赤ちゃんの姿こそ、まことの平安の中にいる姿ではないでしょうか?

聖書が教える神様は全宇宙を創られて統治しておられる創造主であり、すべてのものの源であられる真の神です。

イエス様が下さる真の平安は天地を造られ治めておられる全知全能の神様が私たちと共におられることです。

今日は各教会で礼拝がささげられる日曜日です。

この放送を聴いて、聖書の言葉を信じて、教会に行ってみてはいかがでしょうか?

教会に行くということはイエス様のみ前に進んでいくことです。

神様はご自分のみ前に出てくる者を喜ばれ、両手を広げて迎えてくださいます。

今日から始まる新しい一週間。

いつでも、どこでも私たちと共にいてくださる神様による平安が、御前に出ていく皆さんのすべての時間、すべての場所、すべての交わり、すべての状況の中で豊かにありますように祈ります。

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