人を支えるもの

「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」
旧約聖書 詩編 54編6節
つい二週間前のことですが、明け方に急に下腹部が痛くなりました。初めは何だかおかしいなという位だったのですが、次第に痛みが強くなり、広がってきました。横になってじっとしていることも出来なくなり、まっすぐに立つことも難しくなりました。一体どういうことかと不安になりました。病院が開く時間まで何とか我慢し、駆け込んで診てもらいました。
検査の結果、結石、石が出来ており、それが原因で腎臓にも炎症が起きていることが分かりました。前日まで全く前兆というものがなく、急なことでしたので本当に驚きました。昨日までの状態が今日もきっと続くとどこかで思っていたのです。自分の健康を過信していたなと反省しました。
私ももう60歳近くになりますので、色々と病気が出て来る年齢です。教会員からは毎年のように「早く健康診断に行って下さい」、「まだですか。いつですか」と言われます。自分としても、仕事を続けていくためにも健康に気を付けなければならないと思います。
健康であれば何とかなる、と言われることがあります。つまり健康が人を支える、ということですね。神様から頂いた身体をしっかり管理するのはとても大切なことです。しかし健康というのはいつ失われるか分からないものなのですね。
私たちは普段、健康を始めお金や仕事や家族、また多くの人々や多くのものによって生きているのだと思います。そして、それらがあれば安心だと考える。そして、この先もずっとこの自分を支えてくれているものがあり続けると何となく思いこんでいるのではないでしょうか。けれども、それは本当なのでしょうか。
聖書はこう言います。「主はわたしの魂を支えてくださる」。主とは、神様のことです。神様は、この世界の全てと私たち一人一人をお造りになった方です。そういう意味で全ての始めであり土台であられます。また、神様は今もすべてを愛をもって導き、守り、支えておられるのです。
普段私たちは、神様についてそれほど意識せずに過ごしているのかもしれません。今の生活にそこそこ満足しています、自分の力で、周りの力でやっていけます、特に神様は必要ありません、と。
でも急に大変な痛みに襲われると、不安な気持ちになって、「一体どうなるのだろう。助けて欲しい」、と叫びたくなるのではないでしょうか。
病だけではありません。これまで頼りになると思っていたものが、実はそうではなかった、という時、私たちはうろたえます。自分について、もう少しまともで力があると思っていたのにそうではなかった、あるいは自分の心の醜さを突き付けられたという時も、同じです。
聖書は、そのような時にこそ呼びかけることが出来るお方としての神様を示してくれています。
先程お読みした詩編の作者は、自分の命が狙われるという厳しい状況の中で必死に神様に呼び掛けます。「神よ、わたしの祈りを聞き、この口にのぼる願いに耳を傾けてください」と。そして「見よ、神はわたしを助けて下さる。主はわたしの魂を支えて下さる」と言うのです。神様が支えて下さると知っているから、神様に祈っているのです。
祈ればすぐにそれに応えて神様がすぐさま敵をバッタバッタと倒して下さった、状況があっという間に良くなったというのではありません。祈っても一向に良くならない、ということもあったのです。けれどもその中でも、神様が自分の全てを支えて下さるお方だ、とこの作者は知っていました。だから神様に祈っているのです。この人は、神様への期待によって支えられているのです。
不安や恐れや痛みの中で、自分の力にはもう頼れない、自分ではどうしようもないと追い詰められる。その中で、神様に信頼の目を向ける。その時に、神様が本当に支えて下さるお方として立ち現れてくるのです。
「魂を支えて下さる」というのは、神様に祈れば何となく気持ちが落ち着く、という程度のことではありません。たとえ私たちには理解できないことが起こっても、願いとは違うことが起こっても、神様は私たちを支えて下さっているのです。自分の思う以上に深い所から神様は支えて下さるのです。自分を越えたところにおられる神様が、本当に人を支えて下さるのです。