聖書の言葉
「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。」
旧約聖書 箴言 30章8節
常石召一によるメッセージ
私のスマートフォンには毎日色々なニュースが流れてきます。最近良く来るのは、数年前、必要に迫られて調べたことが関係するのだと思いますが、コンピュータの部品に関する情報です。ある時妻にそれに関連の話をすると、「何それ~?」とポカンとしていました。何のことだかさっぱり分からない、そんな単語聞いたことがない、と言うのです。確かにテレビや新聞にはまず出てこないかもしれませんが、私にしてみれば毎日触れている情報ですから、当然知っているだろうと思い込んでいたのです。考えてみるとスマホに届く記事というのは、それぞれの興味や関心に合わせた内容が表示されるようになっているのですね。では、妻のスマホにはどんなニュースが届いているのかなと見せてもらうと、私が見たこともないような話題や料理や音楽の記事など、それこそ「何それ~?」というようなものばかりでした。
夫婦であっても、これほど違う情報に接して生活しているんだと改めて驚きました。
今は、本当に多くの情報が氾濫しています。その中で私たちは必要かつ有益な情報をちゃんと取り入れているつもりになっているのかもしれません。けれども実は偏った情報にしか接していない可能性があります。
自分に届く情報が全てだと思わない方がいいのでしょうね。知らないことがたくさんある、ということを自覚する必要があるのでしょうね。
これだけ沢山の、しかも自分の興味がある情報ばかりに囲まれていると、人間にとって本当に必要な情報、なくてはならない知識に対するアンテナが働かなくなってしまう危険があるのだと思います。
先程お読みしました箴言にはこうありました。「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください」。遠ざけて下さい、と願っているのは、近くにあるからです。どんどん近くに寄って来る、あるいはこちらから近づいていきたくなってしまう、ということです。
私たちの身近にあって、非常に魅力的だけれども、いつかは消え去るむなしいものや、真実ではない言葉。それらの誘惑がとても大きいこと、自分の力では太刀打ちできないことをこの箴言の著者は知っていたのでしょう。だから遠ざけて下さいと神様に祈っているのです。
またこうも言っています。「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください」。
「金持ちにもせず」という願いは驚くべきものです。私たちはやはり金持ちになりたいと思うのではないでしょうか。そうでないとしても、わざわざ「金持ちにしないで下さい」と祈らなくてもいいのでは、という気がします。しかしこの著者は、金持ちになろうとして道を踏み外した人や、お金があるがゆえに、愛し合い・助け合うことを忘れてしまった人を知っていたのでしょう。
一方でこの人は「貧しくもせず」とも願います。貧しさのあまり、本当に苦しんで、心が疲れてしまう。その現実も知っていたのだと思われます。
そして、「わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください」と祈ります。
私たちはついつい、お金や名誉やなどがあれば、また知識を増やせば良く生きることが出来る、と考えます。しかし聖書はそうではない、と言うのです。
「私のために定められたパン」というのは、随分とささやかな望みです。もっとおいしいもの、もっと様々なものを求め、もっと豊かに、もっと上を目指すべきなのではないか、と思われるかもしれません。
聖書は現状維持の消極的な生きかたを勧めているのではありません。自分の力で自分に必要なものを手に入れることが出来ると思う傲慢を戒めているのです。私たちの造り主であられる神様は、私たち一人一人を顧み、ふさわしい時に必要なものを与えて下さいます。素晴らしく生きることが出来るように定めて下さっているのです。
神様はどのようなお方か、どれほど私を愛して下さっているのか、そして実は深く配慮をしてくださっている、それこそ私たちの誰もが知るべきことです。その神様に信頼し、感謝をして生きるとき、私たちは健やかに、また安心して日々を送る道が拓かれるので。
神様は聖書を通してご自分を示して下さっています。「神様の愛?何それ?」とならないように、是非教会で聖書を学んでいただければと思います。