主イエスを信じる信仰とは ~その2~

「8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソの信徒への手紙 2章8ー9節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章8節-9節
おはようございます。神戸改革派神学校のキム・ソジョンです。
今朝も先週に続いて、「主イエスを信じる信仰とは何か」について話したいと思います。
前回お話した通り、私は小学校3年生の時に初めて教会に行きました。その頃は、聖書の御言葉が信じられず、聖書はただの小説だと思いました。イエス様は小説の中の架空の主人公に過ぎないと思っていたのです。しかし、不思議なことに、教会ではなく、中学校の世界史の授業を通して、イエス様が実際にこの世に存在していた方であることに気づかされました。その後、聖書の学びや様々な他の経験を通じて、私は少しずつ聖書を真理として受け入れるようになりました。この過程は、天から送られた救いに至る信仰の贈り物を少しずつ開けてみる時間だったと思います。イエス様を信じる信仰は、私自身の力ではなく、天から送られた神の贈り物でした。
さて、その後、私はどうなったのでしょうか。高校生になった私は洗礼を受け、熱心に信仰生活に取り組みました。学校よりも教会に行く方が楽しく、日曜日には朝早くから教会に行き、夕方遅く家に戻りました。教会の礼拝はもちろんのこと、祈り会や伝道活動、また、教会の様々なイベントにも積極的に参加しました。しかし、高校3年生を終えた後、私は突然1年間も教会に行かなくなりました。その時は進路で悩んでいましたが、それが教会に行かなくなった決定的な理由ではありませんでした。
実は、私は違和感を感じました。信仰生活を頑張れば頑張るほど、イエス様が望む姿になれない自分が嫌でした。イエス様は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われましたが、私は自分自身も他人も愛することができませんでした。善い人になりたいのに、いつも考えと行動が、正反対の方向に走ってしまいました。信仰生活を頑張れば頑張るほど、イエス様から遠ざかるような気がして、虚しさを感じました。
それで、「私は自分がイエス様の救いの計画に含まれていないかもしれない」と感じました。もちろん、当時、私にとってイエス様はもはや小説の人物ではありませんでした。イエス様は、2000年前に実際にこの世の歴史の中に現れ、十字架にかけられてから3日後に復活され、今もなお生きておられる方であることを信じていました。昔は、聖書の内容をまったく信じることができませんでしたが、いつの間にかむしろ聖書を信じないことができなくなっていました。しかし、「イエス様の救いの計画に自分が含まれていないかもしれない」という別の悩みが生じてしまったのです。信仰の深い牧師先生や優しい友人たちだけがイエス様の救いの計画に含まれて、自分はその中に含まれていないのではないかと思ってしまいました。そうでなければ、このような違和感や虚しさを感じるはずがないと思いました。そして、イエス様を信じているのに、イエス様の救いの計画に私が含まれていないかもしれないというこの思いはずっと私を苦しめました。要するに、私は途中で救いから除外されたと感じていました。なぜなら、信仰は私の善い行いによって支えられるものだと思っていたからです。
しかし、イエス様は一度与えられた救いに至る信仰の贈り物を取り上げられる方ではありません。つまり、信仰は私の善い行いによって与えられたり、取り上げられたりするものではなく、ただイエス様の真実さによって支えられます。もちろん、イエス様は私たちに常に善い行いを求められます。イエス様は隣人を自分自身のように愛するように命じられています。しかし、私たちに与えられた信仰は、人間の有限な善い行いによって支えられるものではないのです。救いに至る信仰の贈り物は、私たちに対するイエス様の無限の真実さによって支えられています。実際、信仰を意味するギリシャ語の「πίστις(ピスティス)」には、信仰という意味だけでなく、真実、すなわちイエス・キリストの真実さという意味も含まれています。
信仰は人間の意志のように見えますが、信仰は天からの贈り物であり、この救いに至る信仰という贈り物は、私たちの善い行いによって支えられるのではなく、主イエス・キリストの変わらぬ真実さによって支えられるのです。ですから、誰も自分の信仰を自慢することはできません。もし、自分が善い人ではないために救われないと思っている方がいらっしゃいましたら、遠慮なく近くの教会に行ってみてください。または、聖書を読んでみることをお勧めします。真実なイエス様が必ずあなたを救いに至る信仰へと導いてくださいます。