主イエスを信じる信仰とは ~その1~
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」エフェソの信徒への手紙 2章8節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章8節
私は小学校3年生の時に初めて教会に行きました。そして、教会で聖書に触れるようになりました。毎週教会に行くと、教会学校の先生が親切に聖書の話をしてくれました。しかし、聖書の言葉は幼い私には全く理解できないものでした。先生は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、5千人を食べさせたり、湖の上を歩いたりしたと言いました。また、イエス様が死んだラザロという人を生き返らせ、そしてイエス様自身も十字架に架かって死んだ後、3日後に復活したと教えてくださいました。今思えば、純粋さがまだ残っているはずの子どもだったのに、聖書を信じることができなかったことが、不思議だと思います。しかし、私はどうしても聖書を信じることができませんでした。ありえない話をあたかも本当のことのように話す教会学校の先生たちは変な人たちだと思いました。それで、私なりに聖書はある一人の人が書いた小説だと思うようになりました。イエス様はヒーローとして描かれた小説の主人公に過ぎないと思ったのです。しかし、教会学校の先生には私のこのような考えを話すことができず、イエス様を信じるふりをして教会に通い続けました。なぜなら、教会学校の先生たちはとても親切で、教会はとにかく楽しい場所だったからです。
中学生になってから、イエス様が小説の中の主人公であるという考えがますます強くなりました。そんなある日、学校の世界史の授業で、世界3大聖人について学びました。先生が歴史上、世界3大聖人はブッダ、マホメット、そしてイエス様だと説明しました。 教科書にも世界3大聖人の中にイエス様の名前が記されていました。 私は驚きました。「イエス様が小説の中の架空の人物ではなかったのか? 歴史の中に実際に存在したなんて。」 当時、私は聖書は信じることができませんでしたが、教科書は信頼していたので、パニックに陥りました。もしイエス様が実際に存在していたなら、聖書に書かれている内容も本当ではないかと思ったのです。その後、私は教会の先生に多くの質問をし、聖書の勉強や他の様々な経験を通して、自然と聖書を真理として受け入れるようになりました。絶対に信じられなかったイエス様の十字架の死と復活を心から信じるようになりました。教会の聖書の学びがもちろん土台になりましたが、中学校の世界史の授業を通してイエス様の実存を知るという不思議な経験をしたのです。
振り返ってみますと、イエス様を信じる信仰は私にとって贈り物のように授けられました。救いに至る信仰は私が努力して手に入れたものではありません。私の力によって得られた結果ではなく、今朝の御言葉に記されているように天の神様からの無償の贈り物です。神様が私を小学校3年生の時に教会に導いてくださり、まだイエス様を信じることができなかった時でも、先生方の愛によって教会の中に留まらせてくださり、そして中学校の世界史の時間を通してイエス様が実際にこの世に存在した方であることを悟らせてくださった全ての過程が、天からの贈り物である信仰に気づく過程でした。
そして驚くべきことに、天からのこの贈り物は、私だけでなくあなたにも永遠の昔からすでに届いています。しかし、人によって、自分に届いた救いに至る信仰の贈り物を認識するのには、それぞれの時間がかかります。ある人は、お母さんのお腹の中にいる時から接する場合があり、ある人は、死の直前になってから受け入れる人もいます。また、私のように、様々な経験を通して救いに至る信仰という贈り物を受け入れる場合もあります。
イエス様はすでにあなた宛に救いに至る信仰の贈り物を送ってくださいました。そしてあなたがそれに気づくように、受け入れるように、様々な方法で今も働いておられます。もしかしたら、日曜日の朝、まだ早い時間に「キリストの時間」のラジオを聞いているのは、あなたに救いに至る信仰の贈り物が到着したことを再び知らせるイエス様のお働きかもしれません。どうか、天からあなた宛にすでに届いているイエス様からの贈り物に気づき、受け入れることができますように心から祈ります。