聖書の言葉
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
新約聖書 使徒言行録 2章1節-2節
宇野元によるメッセージ
「素晴らしい五月、あらゆる蕾がほころぶとき」(ハイネ)。この季節に咲く薔薇は、たいていいつも開花のタイミングで試練を受けます。雨と強風。2年前の今頃、猛烈な風が吹き荒れ、牧師館の前の薔薇も細枝が折れ、花弁と葉が傷つき、ふくらんだ蕾が幾つも散らされました。けれども、それでも難をのがれた花たちが憂いなく咲いてくれました。建物の南側にあることが幸いしたと思います。
リルケ以前のばらの詩人、ヘルダリーンの詩を思い起こします。
薔薇よ! 私たちの装いは古くなる
嵐が、お前の、そして私の葉を落とす
しかし永遠の芽が萌え出て
やがて新しい花がひらく
聖書が伝える聖霊降臨。この出来事について、お読みしました箇所、新約聖書の使徒言行録第2章に詳しく記されています。そのひとつのくだりをお読みしました。それはどのように起きたかが語られております。尋常ならざることが記されています。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。
暴風が打ち叩くような音。聖書の記述を虚心に読むとき、桁外れの力がそこに働いていることが感じとれるでしょう。嵐に見舞われるよう。いわゆる「よきもの」がやってくるというのと異なる印象をあたえられます。激しさ。打ち叩く力が語られています。これは何と重なるのだろうか? そう思い巡らすようみちびかれます。
この出来事は、旧約聖書のヨブの体験を想起させるでしょう。突然、大風が吹き荒れた。それによって彼の人生は一変しました。そのように、この出来事は、人生の苦難と重なるかのように思われます。もちろん、ヨブと同じでなくても。
おもえば、私たち誰もが苦難を体験します。突然の嵐に見舞われる。激しく打ち叩かれる。このことは、私たち誰もが知る、私たちの体験でもあるでしょう。
「五旬祭」、すなわちペンテコステの日に集まっていた人たちは、まるでそのような災いに見舞われたかのようです。
また、このときの轟音は、私たち人間の罪の力を思わせるでしょう。なによりその激しさにおいて。そして誰もが免れられない力において。しかし、それと共に、私たちの思い巡らしは、さらにもうひとつの特別な体験を思い起こすよう、みちびかれます。
聖書は知らせます。私たちを激しく揺さぶる体験は、世界の矛盾に巻き込まれる痛みや苦しみ、悲しみも含めて、イエス・キリストの苦難のなかに受けとめられています。そしてなんと驚くべきことでしょう! 罪と死の力に打ち勝つ、桁外れの力が、イエスの復活によって証しされています。実際、その力はどれほど大きな力であるのでしょう。イエスにある恵みが、聖霊降臨の出来事のうちに示されています。
聖書が伝えるこのとき、この家にいた人たちは、確かな心をもって新しい事柄を語るようみちびかれました。このときからイエス・キリストについての宣べ伝えが始まりました。
ナザレという村の出身であったイエスは、エルサレムで十字架につけられた。私たちを揺さぶる体験が、この方の体験のなかにもれなく受けとめられています。私たちが悩み、苦しむこと、罪と死が、この方の苦難において。
そしてこの方の苦難において、赦しと命が示されます。私たちは生きるようみちびかれます。この方の復活において。
どれほどに大きな力がこのために働いたことか。計り知れない力が働いたか。このことが、けさの言葉に示されています。
私たち誰もがのがれる場所を必要としています。安心して休める場所を、手厚くかくまわれることを。
嵐が見舞うとき。また困難な今の時代のなかにあって。ともに、イエスの十字架と復活のもとに身を置かせていただきましょう。嵐に打ち勝つ、神のご愛の力のもとに立たせていただきましょう。