青草に座って

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聖書の言葉

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

新約聖書 マルコによる福音書 6章39~41節

山中雄一郎によるメッセージ

この聖書の言葉は、キリストが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させられたという不思議な奇跡の物語の一部です。

ある日、キリストと弟子たちとがしばらくの静かな休みの時間を過ごすために、舟に乗って人里離れた場所に行きますと、そこには群衆が先回りをして待っていました。キリストは、それほどにキリストを慕う群衆の寂しさや満ち足りない思い、心の渇きを思いやられて深く憐れまれました。

そして、キリストは、群衆に向かって、心の渇きを癒す教えを語り始められました。今、聖書に記されているような教えです。あなたは神の限りない愛で愛されている。心に責められることがあっても、あなたのすべての過ちは赦される。あなたが、そのような神の愛と赦しを幼子のように信じるなら、あなたの心にも愛が湧き上がり、人を愛する喜びが広がる。今、聖書の中心となっているそのような教えをキリストは語り続けました。そして、そのキリストの教えは群衆の心を満たし続けたんですね。

夕方になってもだれも帰ろうとしません。すると、キリストは、その群衆を空腹のままでは帰せない、とおっしゃって、弟子たちが持ってきた五つのパンと二匹の魚を奇跡で増やして、五千人の人々を満腹させられたのです。こうして、神の限りない愛は、教えで説かれただけではなく、パンと魚という形をとって、群衆に届いたのです。青草の上で奇跡のパンを食べながら、群衆は、キリストの憐れみと神の愛を味わったのです。

キリストが用意した食事は御馳走が並ぶ大盤振る舞いの食事ではありませんでした。大変に質素な、パンと魚だけの食事でした。会場も豪華な建物の中ではなく、青草の上での宴会でした。でも人々はこのときに「満腹した」と聖書に言われています。それは、「満ち足りた」とも翻訳できる言葉です。お腹がいっぱいになっただけではなく、魂も満ち足りたのです。この質素なパンと魚が、神の限りない愛の現れであることをはっきりと分かったからです。

この不思議な出来事は、今も、キリストと向き合うならば、別の仕方で経験することのできる出来事です。

私たちが寂しさや満ち足りない思いを抱くとき、心の渇きを感じるとき、キリストと向き合うことができるなら、キリストは、心の渇きを癒す言葉を語り続けてくださいます。キリストと向き合う気持で聖書を読むならば、あるいは、キリストと向き合う気持で教会に出かけて聖書の説き明かしを聞くならば、あなたはキリストのこの語りかけを聞き取ることができるでしょう。自分がどれほどに神に愛されているか、どれほどに大切な存在であるか、しみじみと味わうことができるでしょう。あなたの心は温められ、自分と人々とを温かい心で喜び、愛することが始まるでしょう。キリストは、そのような仕方であなたの心の渇きを癒してくださるのです。

それだけではありません。キリストと向き合って、自分がどれほどに神に愛されているかを味わうとき、日々の食べ物は神の愛のしるしになるんですね。食べ物だけではなく、日々の健康も、この世の必要と楽しみの全部が、神の愛のしるしです。

食卓を囲むたびに、神の愛が届いていることが分かるのです。この日の健康が守られていることを覚えるたびに、神の愛が届いていることを味わうのです。そのようにして、感謝する喜びが、私たちの心の渇きを癒し続けるのです。

キリストが与えられたのは、パンと魚だけの質素な食事でした。それでも、その食事は、神の限りない愛の現れでしたから、群衆は満ち足りました。今も同じです。人並み外れた豊かな食事や健康やこの世の楽しみが揃わなくても大丈夫です。人並み外れた繁栄でなくても大丈夫です。どんなに質素なものであっても、神の限りない愛の現れとして、現実に与えられるものを受け取ることができるなら、そして、感謝をするならば、人生の味わいは豊かです。魂の満ちる日々を私たちは歩むことができるでしょう。

キリストは、私たちが生きるときに与えられるすべてが、神の愛の御手から与えられた奇跡のような贈り物だということを気づかせてくださり、その贈り物を与え続けてくださる方なのです。

青草の上に群衆を座らせ、心の渇きを癒してくださったキリストの恵みをあなたにも味わっていただきたいと思うのです。

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