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聖書の言葉

「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」

旧約聖書 イザヤ書 41章10節

韓相眞によるメッセージ

聖書の中で一番多く登場する神様の命令は何でしょうか?祈りなさい!愛しなさい、あるいは、伝道しなさい!でしょうか?違います。驚くべきことに、聖書の中で一番多く出てくる神の命令は、「恐れるな!」です。それほど、人間というのは、恐れが多い存在だということです。

しかし、この「恐れ」というのは、本来、人にあったものではありませんでした。

創世記を見ますと、神が人を創造された時には、恐れを覚えることはありませんでした。最初は、恐れなど全くありませんでしたが、アダムとエバが神様の禁じられた善悪の木から取って食べてから、「恐れ」というものが生まれました。創世記3章を見ると、エデンの園で、風の吹くころ、神様が臨まれる音が聞こえて来ます。以前までは、神様が来られる音を聞くと、アダムとエバは喜んでいましたが、善悪を知る木の実を取って食べてからは、神様が来られる音を聞くと、恐れて隠れます。神様のお呼びに、アタムは、「神様、あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」と、答えます。「恐れ」という言葉がここで、初めて登場します。つまり、この「恐れ」というのは、罪を犯してから生まれたもので、「恐れ」は「罪」の結果だと、聖書は語ります。従って、罪人である人間は、基本的に皆恐れを持っています。

心理学では、人間が持っている「恐れ」は、幼児の時の基礎的な恐れの延長だと言います。それは、大きく三つのことでまとめられますが、「落ちる恐れ」、「大きい音に対する恐れ」、「見捨てられる恐れ」です。この幼児の時のこんな恐れは、大人になると、それぞれ他の恐れに発展して行きます。幼児の時の「落ちる恐れ」は、大人になると、失敗に対する恐れ、あるいは、思い掛けない事故に対する恐れになります。また、「大きい音に対する恐れ」は、批判に対しての恐れ、あるいは暴力などの恐れになります。幼児の時の「見捨てられる恐れ」は、大人になりますと、孤独と不安がもたらす恐れ、別れの恐れ、拒絶される恐れ、未来に対する恐れに繋っていきます。

心理学でいうこれらの恐れは、私たち人間が生きていく中で、実際に経験する大半のものではないかなと思います。

では、こうした恐れの原因は何でしょうか。心理学でいうこれらの恐れの項目を一つ一つよく考えてみると、ある結論に至ります。その原因というのは、保護者がいないということです。人間が覚えるこれらの恐れは全て、自分を守ってくれる保護者がいるなら、一気に解決されるものです。

幼い子どもは、お母さんが見えなくなると、不安になります。周りを探しても見当たらないと、泣いてしまいます。自分を守ってくれる保護者が見えなくなると、不安や恐れが襲ってくるからです。つまり、まことの保護者がいるかいないか、という問題です。自分を守ってくれる真の保護者がいるならば、恐れる必要はありません。

しかし、まことの保護者である神から離れた人間は、まことの安息が得られず、常に恐れを覚えて生きます。こんな人間がまことの平安と安息にあずかるためにはどうすればいいでしょうか?

神のもとに帰っていくことです。それ以外の道はありません。

ところが、愚かな人間は、神様のもとに戻っていくことを拒みます。そして神様の代わりに、自分を守ってくれるものを作り出します。それを聖書は、「偶像」と言います。偶像は、神様を離れた人間が、自分たちの保護者として造り出したものです。偶像は、目に見える何かの像を作って拝むことだけではなく、天地創造の神の代わりに依存する、自分の保護者とする何かを意味します。

ある人は、自分が勤めている会社が自分を守ってくれると思い込みます。そして、毎朝出勤して、大きな会社の建物を見ながら、安心します。「こんなに丈夫な会社なのだから、私は安全だ!」と思い込んでしまうのです。ある人は、通帳にあるお金が自分自身を守ってくれると思い込みます。不安になったら、通帳を開けてみて、安心感を得ます。「これほどのお金があるから私は安全だ!」と考えるのです。ある人は、学歴が、ある人は人脈が自分を守ってくれると思い込んで、学歴を築き、人脈を広げます。自分自身を守ってくれる保護者を探しているのです。

学歴を築くこと、お金を儲けること、大きな会社に勤めることは、別に悪いことではありません。良いことです。しかし、問題は、これらのことは私たちを本当に守ってくれることができない!ということです。私たちの真の保護者になることはできません。

人間自身もそれを分かっているから、いくら多くのお金を通帳に持っていても、他の何を持っていても、安息が得られず、常に私たちに襲ってくる恐れを振り払うことはできないのです。

イザヤ書で、神は語ります。「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。わたしの救いの右の手であなたを助け、あなたを支える。」神様が、わたしの保護者になってくださる!と語っているのです。人は、真の保護者である神のもとに帰ってこそ、まことの平安と安息を得ることができます。

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