いかに幸いなことでしょう 幸福の歌、詩編84編
禰津省一
- 熊本教会 牧師
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主は太陽、楯。神は恵み、栄光。完全な道を主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたにより頼む人はいかに幸いなことでしょう。
旧約聖書 詩編 84編12,13節
一年のうちで最も寒い季節を迎えています。皆さま、お変わりなくお過ごしでしょうか。今週と来週は、詩編84編と85編のみ言葉に耳を傾けましょう。この二つの詩編には、それぞれ印象的で心惹かれるみ言葉があります。例えば詩編84編では、「あなたの庭で過ごす一日は千日にもまさる恵みです」という御言葉が心に残ります。また続く85編では「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」とあります。これもまた心を惹きつける美しいみ言葉です。今朝はまず詩編84編の御言葉全体に心を向けてみましょう。
詩編84編は「幸いの詩編」です。この詩編には「いかに幸いなことでしょう」というフレーズが三度繰り返されているからです。「いかに幸いなことでしょう」。この「幸いだ」、ヘブライ語のアシュレーという言葉は詩編全体に13回記されるそうですが、そのうちの3回がこの84編にあります。
詩人にとって第一の幸い、アシュレーは、神の家に住まうことです。5節をお読みします。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら」。詩人はこのことを目指して神殿のあるエルサレムへの旅の途上にあります。
わたしは、数十年前に初めてキリスト教会の礼拝に出席したときのことを思い起こします。静かな礼拝でした。しかし、そこにはこの世には無い貴重なもの、かけがえのない何かがありました。初めて経験した教会の礼拝でわたしの心を捉えたのは、牧師の説教でもなく、讃美歌でもありませんでした。そこに集っている人々の姿、その存在そのものだったのです。ここに神様を本当に信じて生きている人がいる、自分もそこに加えられたいと思いました。11節で詩人はこう歌います。「あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる恵みです」。
詩人が歌う二つ目の幸い、アシュレーは、神さまから力を頂くことです。6節はこう歌います。
「いかに幸いなことしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」。信仰者であるかそうでないかに関わらず、人は思いがけない苦難に遭遇します。私たちが人生における嘆きの谷、苦難の時を過ごすとき、神様は私たちに力を与えて下さるのです。どうしてこんなことが起こるのかと思うような体験、そのような険しく細い道であっても必ず広い道に変わります。湧き上がる泉が、わたしたちの命をよみがえらせます。その人たちは力を増し加えられつつ良い道を進み、ついに神に出会うと約束されています。
この詩の中ほどにある9節と10節は、神の前に集う人々に神様の耳と目が向けられることを願っています。「耳を傾けわたしの祈りを聞いてください」。さらに、「あなたの力、あなたから来る祝福で覆ってください」と願い求めます。そして10節では、「神の前に集う人々を守る人に目を向けてください」と祈っています。旧約時代にはそのような人物はイスラエルの王であり、また大祭司であると思われます。「あなたの油注がれた人を顧みてください」。しかし、新約の教会においては、民を守るお方は主イエス・キリスト以外にはありません。
最後の三つ目の幸い、アシュレーは、神様により頼み、神さまを賛美する人に与えられる幸いです。その人たちは幸いなのです。なぜなら、神様は太陽のようにエネルギーに満ちたお方であるからです。また、わたしたちを守る楯でもあるからです。神は恵みと栄光に満ちたお方であり、あらゆる良いものをわたしたちに与えてくださるのです。
エルサレム神殿の柱のくぼみや梁の上には小鳥や燕の巣がかけられていたようです。詩人は、小鳥や燕がいつも神殿にいて、そこを飛び回り、ときに美しい鳴き声を響かせている姿を羨望の眼差しで見ています。ああ、自分もそのように神の家に住み、絶えず神を賛美することができるならなんと幸いだろうかと言うのです。
詩人は12節で「主は太陽、楯」、「神は恵み、栄光」と宣言します。この詩は、エルサレムの神殿を目指して進む巡礼の道から始まりました。しかし終わりには、すでに神の家にたどり着いています。神様が太陽であり、楯であるという強い確信が与えられているからです。いかに幸いなことでしょう。神様を信じて歩む人は。