福音のエッセンス

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聖書の言葉

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

新約聖書 マルコによる福音書 1章14,15節

宇野元によるメッセージ

福音とはなんでしょう。福音は、よい知らせを意味します。よい知らせとはなんでしょう。私たちは、これを美しい日本語によって心にとめることができます。私たちの先輩たちは、これを「よきおとずれ」と訳しました。知らせの意味ですが、「訪ねる」という言葉を連想させてくれます。イエス・キリストが、私たちを求め、訪ねてくださり、よい知らせを知らせてくださいました。

きょうの聖書の言葉は、イエスが知らせるよい知らせ、福音のエッセンスを伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた」。時は満ちた。神が定めた時が来た。時代が変わる時が来た。新しい時が始まった。

「神の国」について、まず、これが何でないかをおぼえたいと思います。現代の私たちの多くにとって、耳なれない言葉であると思います。あるいは、ネガティブな印象を与える言葉になっているかもしれません。「神の国」は、たくさんある国の、どれか特定の国をゆびさすものではありません。人がつくる何かの団体や組織を意味するものでもありません。私たち人間がこしらえる垣根や壁とは無関係に、神が私たちの世界を治めておられる、それを意味する言葉です。人間の支配にまさる支配を意味しています。「破壊と崩壊は領土のうちから絶える」(イザヤ書60、18)。イエス・キリストの到来とともに、このことが知られる時が来た。そして多くのひとが知る時がはじまっている。やがて、みんなが知ることになる。それが神の国です。

もうひとつ、誤解を退けましょう。

神の国が見える仕方で現れている、と語られているわけではありません。

いま、目にはみえない。

私たちの目には隠れています。神の御子が、町の片隅にひそやかに生まれたように。

神が支配しているようには見えない。

けれどもそれは見かけのことである。

私たちは幸いなゴールに向かっている。だから、今あるいろいろなことのなかで不確かにならないように。たしかな心で今を生きるように。そう呼びかけられています。

あるドイツの政治家のお話を思い浮かべます。ながく国のかじとりに関係された。その人が、キリスト者であることの幸いをこう語っています。「わたしにとってなにより幸いなことは、ものごとを決める勇気を与えられることである。経験を重ね、知識が増すなかで、ものごとを決めることの難しさを知るようになる。ものごとを判断し、実行することが求められる。そのことが、経験とともに、また年齢とともに、ますます重荷になる。そんな自分にとって、どんなにか幸いなことだろう。最終の責任は、神様が負ってくださっている。このことが、わたしに決断する自由を与えてくれる。また、自分を批判する目をもち、いろいろな考えを認める者にしてくれる……。」

あやまり多き自分が、むずかしい問題に立ち向かうことができるようにされる。ベストを尽くすよう、力づけられる。私たちは政治家でなくても、ひとりひとり、それぞれの分野において責任をもつ存在でしょう。私たちの日ごとの歩みのなかにも、いくつも判断し、決断することが求められますね。それについて迷う。決めたことをふりかえり、不安になる。悩みやすい私たちにもおなじ幸いが与えられています。

時が満ち、神の国が近づいた。このことが、それらしくは見えない、私たちの世界にむけて語られています。人間であるリーダーたちが働く世界に。悩み、迷う私たちにたいして。ものごとの判断において、よく失敗いたします者たちにむけて。

イエスが知らせる「神の国」、すなわち神のご支配の事実、その秘密をとらえる勘所がここにあるでしょう。神様のご支配は、私たちの現実といったいどのように関係しているのだろう?

神様のご支配は、ちぐはぐな私たちの現実のなかに働いています。私たちがつくる、それらしく見えない世界のなかに。神の国とともにある、そう思えないような自分とともに。

このことを受けとめるとき、ゴールに向かうランナーのように力を得て進むことができます。勇気と自由が与えられます。

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