十字架の傷でいやされて

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聖書の言葉

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

新約聖書 ペトロの手紙一 2章24節

吉岡契典によるメッセージ

わたしは若い時に体育会系運動部にいましたので、試合でチームが負けた時などには、お前の気持ちが弱いから負けたのだと叱られ、「もういいと言うまで、吐くまで走れ」と言われて、何時間でも学校の周りを走り続けるというしごきを受けていました。

それはひとつの罰でしたが、しかしその罰を自分が受けることで、それが罪や責任を免れるための免罪符になって、そのしごきを全部受け切れば、赦されて、少し安心できるという、不健康ですが、そういう気持ちにもなりました。あるいは、チームが負けた責任を自分が背負うことで、周りが赦されるならば、それはそれで良いことだという、自虐的な刷り込みもそこで受けた気がします。

ですから今でも、思わぬかたちで苦しい目に遭った時や、病気や怪我で痛みを負った時、大きな苦労を課せられた時など、そこには少し英雄気取りの、ヒロイズムに似た気持ちもあるのですが、苦しい時にはその自分の試練を、何とかして自分で意味付けをして、この苦しみは人の代理的な苦しみだと、この自分の苦しみで誰かが助かるなら、と考えてしまう節があります。私たちには、自傷行為的なかたちで、自分で自分を追い込んで、傷つけてしまう。そういうやり方によって、色々な自分の苦しみやストレスを乗り越えようとしてしまうという悪い癖があります。

けれども聖書には、自分の苦難へのそんな勝手な思い込みや、独りよがりな傷の意味付けとは、全く別のものが語られています。

傷が、傷でいやされる。

聖書は、傷は、傷によっていやされると語るのです。こんなことを聞いたことあるでしょうか?知っていましたか?聖書の数ある御言葉の中でも、傷で傷が癒されると明確に語るのは、旧約聖書のイザヤ書53章の御言葉と、新約聖書の今朝のペトロの手紙一2章24節だけです。

このペトロの手紙は、イザヤ書53章5節が、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と語った、「彼」という存在が、十字架に架かった主イエス・キリストに他ならない。だから、キリストが「お受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と、語るのです。

そして、本当にその十字架が分かる時、本当にそこで主イエスが苦しんで、傷んで、心と体から血を枯れる程に流して、叫んで、絶望して死なれたということが本当に分かる時、そして、その主イエスの背負われた痛みの大きさを本当に知る時、それによって何がどうなるのかというと、それによって、自分が自分を傷つける必要がなくなるのです。自分が自分を傷つけること以上の傷で、十字架の主イエスが傷つき、打たれてくださった。しかもそれが、私たちの罪を担うためであり、このわたしが癒されるための、わたしのための傷だったと本当に知る時には、そんな自傷行為的なことをわたしがわざわざすることの意味が、効果が、理由が、もはやもう何も無くなるのです。「あなたが、この自分は傷つかなければならない、もっと傷を受けなければならないのだと考えているような、あなたのすべての負い目や責任やダメさ加減は、すべてわたしが、すべてを十字架で、わたしがすべてこの身に引き受けたのだ」と、このわたしに、主イエス・キリストは、語ることができるのです。

この手紙の執筆者ペトロは、当局者たちに捕まって十字架に架けられていく主イエスを助けなければならない場面で、怖くなって自分の身の安全を優先し、「わたしはイエスを知らない、全く無関係だ」と、3度続けて言い張りました。しかしペトロは、裏切った直後に主イエスと目を合わせて、その眼差しに打たれて、激しく泣きました。主イエスは元々ペトロの裏切りを予告されていて、その裏切りの罪もすべて込みで、御自分が十字架に架かって引き受けると語っておられました。その意味が、泣きじゃくるペトロに、その時初めて分かったのだと思います。

ペトロは、同じく裏切ったユダが自殺してしまったような、自分で自分を罰する道を主イエスによって塞がれて、自分が償わなければならい罪も、主イエスの眼差しによって赦されてしまいましたので、彼は、ただただ泣くことしかできなかったのです。ペトロは、泣きじゃくりながら、こんな自分に代わって、こんな自分のために、傷ついて痛んでくださる主イエスの愛を、ただ受け取ることだけしかできませんでした。しかしそこに救いがあり、十字架の傷による、いやしがありました。ですからこれは、このペトロだからこそ語ることのできた言葉です。

なぜわたしだけがこんな苦しい思いをしなければならないのかと思う。しかし、今朝私たちが知ったことは、それが、このわたしだけのことではないのだ、ということです。なぜわたしだけが、なぜわたしばかりが、という思いがあるなら、それは間違いです。どんなところにいる誰よりも、このわたしよりもずっと、わたしのために、わたしのことで、心と体の両面において、最も深く傷ついたのは、主イエス・キリストです。

24節の次の25節は語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」そうです。私たちは、行く当てを失った弱く小さい羊のように、さまよっていました。しかし今朝こうして、ラジオを通して、魂の牧者であり、監督者である方のところへ、戻って来たのです。私たちのために、傷を負ってくださった主イエス・キリストが、帰る場所、いやしの場所です。

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