あなたのための日曜日

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聖書の言葉

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28節

藤井真によるメッセージ

イギリスのチャールズ・チャップリンという人が演じた「モダン・タイムス」という映画があります。1936年の作品で、いわゆる「喜劇」と呼ばれるジャンルですが、ただ面白おかしくというのではなくて、その背景には時代が抱えている深刻な問題を鋭く指摘する、そのような一面が喜劇にはあるそうです。映画の冒頭に次のような言葉が映し出されます。「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」。興味深い言葉です。チャールズ・チャプリンの圧倒的な演技に魅了されつつ、実はそこで私たち人間にとっての幸福とは何か?を問うているのです。しかし、その人間の幸福を妨げるもの、それが「人間の機械化」という問題なのだと指摘するのです。人間が機械の一部になってしまって、人間本来の輝きを失ってしまっているというのです。

鉄鋼工場で働くチャールズは、ベルトコンベアーの前でスパナを手にして、朝から晩までひっきりなしにネジを回し続けています。その結果、チャールズはどうなったかと言うと、正気を失い、仕事を終えて、家に帰っても、目に見えるものすべてがネジに見えてしまうのです。そして、それらを追いかけ回さないと、気持ちを落ち着かせることができません。やっと仕事の時間から解放されて、家でゆっくりと、というわけにはいかないのです。休みながらも、仕事のことが頭から離れず、騒がしい時間を過ごしている。気づいたら、朝になっていて、また機械の一部のように働き続けなければいけないのです。

ある時、チャールズは共産党のデモ隊のリーダーと間違われて捕まってしまいます。しばらくして、出所の許可が出るのですが、その時、チャールズは言うのです。「牢屋のほうが居心地がいいから、もう少しここに居させてくれ…」たいへん皮肉な言葉ですね。誰も牢屋になど居たくないのです。けれどもチャールズにとっては、私たちが置かれている場所、そこで機械のように働き続けないといけないこと。そっちのほうが、余程、嫌な場所だというのです。

映画の最後で、チャールズは父親を亡くしたある女性と出会います。そして、暖かさと自由がある世界があることを信じて、二人は手をつないで歩き出して行くのです。果たして、彼らが望んだ居心地のいい世界を見出すことができたのでしょうか。しかも、仕事や愛の労苦をはじめ、それぞれが重荷を背負いながらも、人間らしく生きることができる素晴らしい世界を見出すことができたのでしょうか。映画はそれ以上、何も語らないのです。それは今も人間が本当の幸福を求め続けているという現実があるからかもしれません。

お話の初めに、イエス・キリストの言葉を紹介しました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」聖書の言葉の中でも、とりわけ、人々から愛されている言葉です。それはイエス・キリストがこの私のために語っておられるのだということが、よく伝わってくるからだと思います。イエスという方は、疲れ果て、へとへとになっている私のことを知っていてくださるのだなあ。そして、「さあ来なさい!わたしが休ませてあげよう!」と自信に満ちた声で、私を招いていてくださる。イエス・キリストのもとにはいったい何があるのだろうか?イエスというお方からしかいただくことができない休み、イエスというお方しか取り除くことができない重荷とは何だろうか?不思議に思いながらも、イエス・キリストのもとに行って憩う時に、今まで知ることがなかった平安を覚えたのです。イエス様のもとにこそ、私が本当に必要としていた安らぎがあり、居場所がある。多く人がこのイエス・キリストのこの言葉に心捕らえられ、イエス様を信じる者へと変えられていきました。

また、イエス・キリストから休みを与えられるというのは本当に元気になるということです。「もう休みが終わっちゃった」「また明日からたいへんな日々が待っている」と言って、ため息をつきながら、重い腰をあげるように立ち上がるのではないのです。私たちの歩みは、仕事や勉強、家事、子育て、介護など、どれも尊いことに違いないのですが、決して楽なことではありません。誰かを心から愛するということはたいへんなことです。それこそ重荷を背負い、忍耐することが求められます。あるいは自分の思いとは違って、無理やり重荷を背負わされる。なぜ私なの?と思うこともあるでしょう。そのような歩みの中で、私たちは自らの貧しさ、弱さを嫌というほど経験するのです。工場の機械の一部どころか、本来与えられているはずの人間らしい心を失い、まるで野獣のように恐ろしく、惨めな自分と出会ってしまうということもあるのです。でもイエス・キリストはそんなあなたのことを招いておられます。あなたを救いたい、あなたに元気と勇気を与えたい。そう願っておられるのです。

イエス様のところに行くというのは、日曜日、教会の礼拝に行くことでもあります。キリスト教会にとって日曜日は特別な日です。神様が、イエス・キリストが、「この日、わたしと会おう!」「わたしは必ずあなたがたに祝福を与えるから!」と約束してくださった日であるからです。皆様の周りには素敵な場所がたくさんあることでしょう。けれども、ぜひ、一度、お近くの教会に足を運んでみてください。疲れ果ててしまう現実の中に響き渡るイエス・キリストの喜びの声、いのちの声がそこで聞こえてきます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」

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