小さなものの好きな王様

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聖書の言葉

初めに、神は天地を創造された。

旧約聖書 創世記 1章1節

藤井真によるメッセージ

親になるとよく自分の子どもに絵本を読み聞かせることがあります。私の好きな絵本の中に、『おおきなもののすきなおうさま』(安野光雅 作/絵、講談社)という本があります。タイトルどおり、大きなものの好きな王様は、屋根よりも高いベッドで寝て、朝起きたらプールぐらいある大きな洗面器で顔を洗います。朝食にリンゴを食べるのですが両手には10メートルもあろうかという大きなスプーンとフォークを持っています。当然一人では持てませんから、家来に支えてもらいながらリンゴを切って食べるのです。

ある時、王様は大きな植木鉢をつくりたくなりました。3階建ての建物くらいある高くて大きな植木鉢です。庭を掘って、その土を植木鉢に入れることにしました。土を掘った際にできた穴に水を溜めて池をつくります。その池で釣りをしたいと思った王様ですが、クジラくらい大きな魚を釣りたいということで、家来たちは一週間かけて、クジラをどこかからか見つけてきて池まで持ってくるのです。こういう話が他にもあるのですが、面白おかしい反面、これに付き合わされている人たちもずいぶんたいへんだろうなあと思うわけです。

しばらくして、王様は大きな植木鉢にチューリップの球根を植えることにしました。期待していたのは、見たこともないくらいに大きなチューリップの花が咲くということでした。花が咲くのを今か今かと待ち望みます。ある日、植木鉢を覗くと待ちに待ったチューリップの花が咲いていました。しかしそれは、誰もが知っている大きさの赤いチューリップだったというのです。「おおきなおおきなうえきばちに、かわいいかわいいちゅーりっぷが、ひとつさきました。」それで絵本の物語はおしまいです。

この絵本を書いた安野光雅さんは「あとがき」の中で次のように言っています。

「エジプトの王は、ピラミッドという巨大な墓をつくらせたが、大きな花を咲かせることだけはできなかった。生命を人間がつくることはできない。花一つ、虫一つが、かけがえのないものであることを思わねばならぬ。」

いのちというのは、人間がつくるものではありません。いのちというのは与えられたものです。それは人間であれ、小さな花や虫であれ、与えられたいのちです。もし、私たちがいのちなど、人間の知恵を集めれば、簡単につくることができると思い始めたならばどうなるでしょうか。自分のいのちも人のいのちも自分の手の中で自由にすることができると思い始めた時どうなってしまうでしょうか。一人一人に与えられているいのちの重さや価値といったものがいとも簡単に小さく軽いものになってしまうのではないでしょうか。

大きなものの好きな王様が植えたチューリップの球根が咲かせた花は、王様の思い描いたような大きな花ではありませんでした。誰もが知っている普通の大きさの、普通のチューリップでした。でも、ここに明るい光を見るような思いがいたします。どこかホッとするのです。いのちの大きさ、いのちの価値を人間は自分の手でどうすることもできないのです。なぜなら、いのちは神様がお造りになったものであり、神様が与えてくださったものだからです。

人間は神様によって造られたものの中で一番素晴らしいものであり、それゆえに、「創造の冠」と呼ばれることがあります。けれども、それは自分の思いどおりに生きるために人やこの世界を利用し、相手を傷つけ、苦しめるためのものではありません。けれども人は、大きな墓をつくれば、自分が死んだとしても永遠に生き続けることができるし、永遠に人々から崇められる。そのように自分のいのちも死もすべては自分の手の中にあるというふうにたいへんな勘違いをしてしまっているのです。しかし、聖書において、私たち人間のいのちに大きいも小さいもありません。神様の目から見れば、皆が高価で貴い存在なのです。

でも人はそのことを忘れ、いのちにどうしても大小を付けたがるのです。しかし、そのことが人間同士お互いを傷つけ、神様の御心を悲しませてしまっているのです。いのちの大小にこだわり、「神様と共に生きる」という本当のいのちの価値を見失ってしまった人間を見つけ出すために、神様は御子イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。イエス・キリストは大きなものではなく、小さく貧しい者、絶望している者、何よりも罪によって神様のお姿を見失っている者を捜すために、一所懸命になって愛を注いでくださいました。

その愛のしるしがイエス・キリストの十字架です。十字架の死というのは、この世でもっとも惨めな死であり、神様からも見捨てられた悲惨な死でありました。しかし、そのような深い闇の中に、キリストの十字架が立ち、そこから復活のいのちの光が射し込んでいるのです。だからこそ、私たちは生きることができます。小さな者が一人でも滅びることのないように、今も生きておられる神様はあなたのことを捜しておられます。神様がお造りになり、神様がお与えくださったいのちの中で、また、死に勝利した確かないのちの中で、生きている時も死を前にした時も、望みを持って最後まで生きていく。ここに人間本来のいのちの輝きがあるのだと神様はお語りになるのです。

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