どうせ・・・と呟かない

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聖書の言葉

もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章32節

常石召一によるメッセージ

私を含めて私の家族は、どうも整理整頓が得意ではありません。何かを出して使ったら元の場所に戻す、という当たり前のことがなかなか出来ないのです。以前私の妻が家の中をせっせと片付けながらこうつぶやいていました。「どうせまたすぐに散らかるんだけどね」。そうなのですね。いくら掃除をし、片付けて綺麗になったと思っても、そこで生活していれば、いずれはまた部屋は散らかりますし、ゴミや汚れがたまってくるのです。だからといって、掃除をしないならばどんどん汚れて行きます。どうせ汚れるから掃除をしても無意味だ、ということはないのですね。

ところで、ゴミと格闘する…そんなシーンが出て来る映画があります。1985年に制作された「未来世紀ブラジル」というSF映画です。一人の男の人が町の雑踏の中を歩いています。「町を清潔に」という看板が立っているのですが、捨てられた新聞紙が風に飛ばされて舞っているのです。それがその男性の足に絡みつきます。払いのけようとするのですが、次から次へと紙屑が飛んできて、やがて全身が覆われてしまいます。もがいている内にその人は紙屑の塊と共に姿を消してしまうのです。それに対して周りの人は全く無関心なのです。このシーンは私にとって衝撃的でした。

この映画はSFであり、実際に日常生活ではこんなことは起こりません。けれどもこの場面は、人間が置かれている危機的な状況を鋭く描いているのだと思います。

生きていればゴミも出ますし、問題も起きてくるでしょう。それを解決する先から、また新たな問題が起こる。何とかしなければともがいている内に、身動きが取れなくなる。そうして問題と格闘している内に、生涯を終えることになる。その苦しみを周囲の人は誰も理解してくれないし、手助けもしてくれない。そんなことが自分の人生で現実になるかもしれない。そうした恐ろしさや虚無感をこの映画は表しているのだと思います。

普段の生活において私たちは、自分の常識や想像の範囲内で物事を考えがちです。この映画のような非日常な出来事を思い描くことはあまりないでしょう。また時間的にも、今日一日のこと、一週間先の事、あるいはどんなに長くても自分が生きている間のことまでしか考えないのではないでしょうか。

それでも人は誰でも必ず死ぬ時が来ます。それなのに死のことを、死の先のことを考えることを余りしないのは、死によって全てが消えるという虚しさを覚えるからかも知れません。

もし、死んでしまえばどうなるか分からない、また全てが終わるのだとすれば、どうしても、人生は虚しいものだと感じます。「生きていたってどうせ死ぬのだ」ということになります。突き詰めれば、生きていることには意味がない、ということになってしまいかねません。

しかし神様は、私たちに、そんな虚しい思いで生きて欲しくない、そんな虚しい人生を歩んで欲しくない、と思っておられます。そのためにイエス・キリストを遣わして下さったのです。そして私たちの罪の身代わりとして、十字架上で一たび死なせた後、復活させられたのです。イエス・キリストにあっては、死は終わりではありません。パウロという人はイエス・キリストの復活を証しして、「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」と言っています。

死の力は圧倒的だと思わされます。そのため刹那的にその日その日を面白可笑しく暮らすのが最善の生き方だ、ということになりかねません。けれども、イエス・キリストは、その私たちのために死から蘇り、死の力を打ち破って下さいました。そのことによって、死は終わりではなく、人生を暗く覆う力ではなくなった、人生を無意味にするものではなくなったのです。

私たちは、何もかもが虚しくなり、あるいは億劫になって、「いくら頑張ってもどうせ無意味だ」、「今が楽しければそれでいい」と言いたくなるのだと思います。けれども神様は、私たちの虚しさをよく知っておられます。そこに丁寧に関わって下さるのです。その証拠がイエス・キリストなのです。ですから私たちは、「どうせ…」とつぶやくことを辞めて、自分の人生を神様の前で丁寧に扱っていきたいと思います。その時に私たちは、神様から意味ある大切なものとされていることを知るのです。その道へと招くために神様は、聖書を私たちに用意してくださっています。

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