絶対美味しいやつやん

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聖書の言葉

金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

旧約聖書 詩編 19編11節

常石召一によるメッセージ

以前、家族と車で出かけた時、ある道の駅に立ち寄りました。店内を歩いていて、ご飯にかけるふりかけが並んだ棚の前に来た時です。娘が一つの瓶を手にとり、目を輝かせて「これ、絶対おいしい奴やん」と言うのです。あまり見かけないちょっと謎な感じのふりかけだったのですが、自信たっぷりに断言するので、買うことにしました。さて、帰宅してそれを開けごはんに乗せて口にした娘は、「えっ・・・」と絶句し、そのまま瓶にしっかりと蓋をしてしまいました。それ以降、娘がそれに手を伸ばすことはありませんでした。

娘が何を根拠に「絶対美味しい奴やん」と断言したのかは分かりませんが、私たちも案外同じようなことを経験するのではないでしょうか。この学校に入れば、この仕事に就けば、この人と結婚すれば人生は素晴らしいものになると思っていたのに、期待はずれだった。またこうすれば人生はうまく行く、幸せになれると言われたのに、そうではなかったということがあるのだと思います。

物ごとが期待とは違った時、やはりがっかりします。期待が大きければ大きいほど、失望も大きくなります。がっかりするのは、自分の予想や、「これはおいしい」との宣伝文句、あるいは他の人や世間が勧める言葉が、自分にとっては本当ではなかったことを悟るからです。それは裏切られたということです。

この世の中に、決して自分を裏切らないものがあるでしょうか。絶対に大丈夫、と断言できるものは存在しないのではないかと思います。

けれども神様の言葉は違います。決して私たちを裏切らない、と聖書は言うのです。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」にこういう箇所があります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(中略)『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」。人は年をとるに従って出来ないことが増えてきます。心身が衰えてあちらこちらに不調を覚える。病気になったり、孤独を感じることもあるでしょう。子どもの頃は無邪気に誕生日を祝っていたのに、もはや年を重ねることは喜びではなくなるのです。聖書は、そうなる前にこの世界を、そしてあなたを創って下さった神様を知りなさい、と言います。それは決して、高齢になってしまったらもう手遅れだ、と言っているのではありません。たとえ何の喜びも楽しみもないと感じる状況になったとしても神様は必ず喜びを与えて下さる。早くその神様を知るように、という促しなのです。

こんな話があります。ある牧師さんが、自分の母親の見舞いに訪れた時のことです。このお母さんは信仰者として長年、神様に仕え、教会に仕えて、かなりの高齢になっていました。臨終が近くなり、ほとんど口もきけなくなっていたそのお母さんが突然こう言ったというのです。「生きていることは何と素晴らしいことだろうか」。

私たちには、いくら真剣に誠実に生きたとしても、失敗や後悔があるのだと思います。また、長生きすればするほど、それだけ辛いことや悲しいことも多く経験するでしょう。いろいろなことが出来なかったという心残り、また出来なくなっている衰えを哀しく思うでしょう。このお母さんも同じだったはずです。にも拘わらず、地上の命の終わりを目前にして、自分が生きてきたことを「素晴らしい、感謝だ」と心から口にすることが出来たのです。それは自分の人生が神様によって愛されてきた、支えられ守られてきたことを思い起こしたからでしょう。そしてそれにとどまらず、「死を超えて更に素晴らしいものをイエス・キリストが与えて下さる」ことを信じていたからでしょう。

イエス・キリストは十字架につけられて殺されました。それは、命を差し出すほどに私たちを愛して下さったからです。その愛は、死んでしまったら終わり、というものではありませんでした。主イエスは復活なさったのです。このイエス・キリストを救い主と信じる者もまた、死によっては終わらない永遠の命が約束されています。死は虚無への入り口ではなくて、喜びの完成への通過点となったのです。私たちは、この地上で生きている間も、死の後も、神様に愛され、喜ばれている。このことを教えてくれるのが、神の言葉である聖書です。

詩編19編には、神様の言葉は「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」とあります。聖書は、私たちが「絶対美味しい奴やん!」と言える神様からの贈り物なのです。自分の命が、自分の人生が神様に愛され・喜ばれていることを覚えるために、どうぞ聖書の御言葉に触れて神様を受け入れて下さいますように。

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