聖書の言葉
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにもなにも言わなかった。恐ろしかったからである。
新約聖書 マルコによる福音書 16章8節
宇野元によるメッセージ
コロナウィルスによるパンデミックがはじまって、いま、3年目の時をすごしています。2020年の春に感染のひろがりが起きたときのことが思いだされます。大きな不安があり、大きな驚きがありました。
あの二年前と重なるようです。今年、ウクライナで戦争がはじまりました。大きな驚きを体験しています。大きな悲しみを感じます。また、この出来事のはかりしれない深さへの恐れをおぼえます。
たとえるなら、慣れ親しんでいた風景が消えて、未知の、不明確な時を前にしているようです。新しいウィルス、さらに新しい戦争が加わって、そんな思いがいっそう強められるようです。
このようなときに、ひとつ、大切なことが浮かんでまいります。いまを生きるということ。このことを、今、学ぶときとされている。しずかに落ち着いて持ち場にたち、歩むよう招かれているでしょう。不安に支配されないように。まず第一に、生きること。第二に、忍耐するように。第三に、働くように。そのためには、しっかりした拠りどころを持っていることが必要です。たしかな希望が与えられていなければなりません。
マルコによる福音書は、とてつもない驚きによってしめくくられています。イエス・キリストの復活の日のこと。
からっぽのお墓を訪れた弟子たちは、大きな驚きを体験します。聖書はそれをありありと伝えてくれています。もういちど、読ませていただきましょう。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。」イエス・キリストの復活。それは喜びとなる前に、まず驚き恐れとして与えられています。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが、イエスのお墓を訪れました。彼女たちはイエスのからだに香油を塗ってさしあげようと考えていました。愛する方のなきがらに手厚い配慮をおこなおう、そう思い描いていたわけです。三日前にイエスがお墓に納められる様子を見ておりました彼女たちは、お墓にむかいながら、ひとつのことだけを心配しておりました。あの重い石の扉を誰があけてくれるだろう?ところが、お墓に着くと、入り口を塞いでいた石はわきに転がされていました。思い描いていたのとちがいます。そして見知らぬ人から告げられます。あなたがたは、十字架につけられ、死んだイエスを捜しているが、あの方はここにはいらっしゃらない。あの方は復活された!イエス・キリストは、あなたがたが想像する場所にはいらっしゃらない。あなたがたに先立って進まれ、あなたがたを導かれる。イエス・キリスト、この方は、あなたがたがよく知っていると思っていたような方ではない。
思い描いていたのとちがう。計画していたのとちがう。それ以上のことが示されています。あなたがたはイエスをつかまえられない。あなたがたの思いのままにできない。イエスは自由。不羈な自由のなかで、力づよくあなたがたを担っておられる。
弟子たちの驚き、その姿から、私たちの思い巡らしが導かれるでしょう。勝手がちがいます。考えていたように歩みが進みません。不安と恐れに囲まれています。そんな私たちに、イエスの復活の知らせが向かい合います。
ちょうど、暗がりのなかにおりました弟子たちに与えられたように。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメ。彼女たちは、力ある方のみちびきのもとに置かれています。おなじように、暗がりのなかに置かれる私たちも、力ある勝利者と共にあります。
世界の状況に驚き、恐れおののく私たちの心に、聖書は確かなよりどころを知らせています。イエス・キリストの復活の出来事において。
私たちは、私たち自身の思いを超えて、支えられています。
これまでとちがう。そんな状況のなかで、私たちの驚きにまさる愛の力、恐れに打ち勝つ強い力に導かれています。