水の上を進むイエス

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聖書の言葉

弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐ることはない」と言われた。

新約聖書 マルコによる福音書 6章49,50節

宇野元によるメッセージ

現代の私たち。事柄の判断において、体験にもとづく知識を重んじる時代に生きています。そのなかで、ときおり、科学と信仰の関係、あるいは理性と信仰の関係がテーマになりますね。

20世紀の偉大な神学者カール・バルトが、これについて、親しい友人への手紙のなかで、こんなふうに語っています。

――きょう、こんな問答をしました。ある人がたずねたんです。「先生の神学にとって、わたしたち人間の理性は、どういう意味を持っているのですか?」わたしはこう答えました。「理性は、わたしに必要なものですよ!」

ユーモアがあり、示唆に富んでいると思います。聖書は私たちに、私たちの体験をこえることを伝えます。それを受けとめる、このことは理性を捨てることではありません。体験を超える出来事を理性を用いて思い巡らす。そこにカール・バルトのような人の神学がつくられているといえるでしょう。また、私たちが聖書の知らせを理解するのにふさわしい仕方が示されていると思います。聖書の言葉に注意をはらい、思い巡らすこと。

弟子たちは、舟に乗って、湖のむこう岸へ行くようにされました。

ガリラヤ湖にはたくさんの魚がおります。しかし、それとともによく知られている特色があります。突然、強い風が起こります。このことは、イエスの弟子たちがよく承知していたことでしょう。漁師たちにとっては、それはもう、自分の専門分野のことであると思います。弟子たちは漕ぎ悩んでいた。――このとき、彼らは困難な状況にあって、なんとか切り抜けようと骨折っておりました。これまでの体験から得た技術、知恵、判断、それらをいわば総動員して取り組んでいたでしょう。

そんな彼らのまえにイエスがやってきます。荒れる波の上を。それは、湖の風以上に、弟子たちをびっくりさせる出来事でした。

弟子たちとともに、心にとめるようみちびかれます。

ここに驚きが記されます。とらえがたいことの前に立つように。とらえがたいことにぶつかるように。そう聖書は私たちを招いています。

弟子たちがぶつかったこと。それは、彼らにとってもありえないことに思われました。

驚き。それは積極的な意味をもっておりますでしょう。

驚くこと。それは私たちを、自分の思いをこえるところに立たせてくれます。小さな子どものように謙遜にならせてくれます。そして小さな子どもが心をひらいて対象にむかうように、新しく思い巡らすようみちびかれます。

福音書は示しています。イエスは水の上を進む。混沌、混乱の上を進む。イエスは、揺れる波のあいだをゆかれる。ちょうど、かつて世界の創造のとき、神の霊が水のおもてを動いておられた、そう聖書のはじめに記されているように。また、そうして神が水を一つところに集められたように。そして陸地を作られたように。

水の上を進むイエスのうちに、神ご自身が示されています。そして知らせています。

「神ご自身、天と地の創り手、はじめである方が、困難な中にある者たちと共にある。今の時を守り、導いてくださる方である。今の時代を治めておられる方である。」

このとき弟子たちは、それを理解できませんでした。ありえない、幽霊を見ている、と思いました。けれども、のちに理解します。イエスの苦難と復活の勝利によって。

力ある神がわたしたちと共にいらっしゃる――この事実を知り、それに信頼をおく者になります。神は私たちを愛する方である。このことについて確かな心をあたえられます。イエスにおいて神ご自身が証しされることで。

彼らは自分たちの驚きを書いて残しました。大切なことを忘れないように。そして、聖書を読む人が神に出会うように。強い風が吹いている、そのなかでこれを思い巡らすように。理解し、信頼して歩む者になるように。

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