この世界で真実に力ある方

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聖書の言葉

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 15章39節

宮﨑契一によるメッセージ

おそらく、このラジオを聞いておられる多くの方は関西に住んでおられる方ではないかと思いますけれども、私は沖縄にあるキリスト教会で働きをしています。

以前は関西での生活をしていましたけれども、沖縄は関西とは違って、何と言ってもまずは気候が違います。歴史や文化、そういったものもやはり大きく異なります。人も違う、教会も違います。沖縄での生活は本当に新鮮で毎日を楽しんでいますけれども、これまで自分が過ごしてきた場所とは全く違うように思うので、まるで海外にいるように感じることがあるのです。沖縄は本当に良い場所だと思います。皆さんも是非一度、遊びに来ていただければと思います。

一方でこの沖縄に住む中で思わされるのは、戦争の現実です。沖縄は良いところだ、リゾート地だ、そのように思われることが多くあると思いますけれども、決してただそれだけでは済まされない戦争の歴史が沖縄にはあります。私自身、恥ずかしい話ですが、沖縄に来るまでは、戦争の無い平和はこのままずっと続くと思い込んでいたところがあったように思います。しかし、かつてこの沖縄で激しい地上戦があった、そのことを知る時に、それはかつて起こったし、これからも起こり得ることだ、とそのように思わされるのです。

聖書という書物も戦争や戦いと決して無関係ではありません。戦いの場面は聖書に多く出てきます。またイエス・キリストという聖書に出てくる救い主、このイエスが生きた時代も戦争と決して無関係ではありません。有名なローマ帝国が自分たちの領土を広げるため戦いを繰り返していた時代です。ある意味で、今の世界と変わらない現実が当時もあったのです。人間同士の戦いや戦争が絶えないという現実です。

しかしその中で、世の中とは全く違う生涯を送ったのがイエス・キリストという方でした。このイエスという人は、聖書の中で「ユダヤ人の王」と言われた人ですけれども、イエスはこの地上の王のように、ただ自分の武力や権力を誇った王ではありませんでした。それに頼る王ではなかったということです。むしろ、この人は聖書を見ると、一人一人の貧しい人、病人、また、人生に苦しみを負っている人や人生に飢え渇いている人、自分の罪に苦しんでいる人のところに自ら行かれます。そして、手を差し伸べられ、その一人一人をご自分の後に従う者にされたのです。

このようにイエスは決して、ただの地上の王のように歩まれなかった。その中でイエスは、最後に同胞のユダヤ人たちから迫害をされ、捕えられ、ローマ帝国の前でも裁かれて、十字架の刑罰を受けることになったのです。

十字架刑ということだけを見ると、ただの失敗に終わった王のようにも見えるかもしれません。しかし、聖書を見ると不思議なことが起こりました。十字架上で息を引き取ったイエスの姿を見ていた一人のローマの役人が、「本当に、この人は神の子だった」とイエスのことを言ったのです。当時、神の子と言えば、ローマの皇帝でした。ローマ帝国の王である皇帝にそのような称号が与えられていたのです。しかし、イエスの十字架を見ていたこの一人の人は、紛れもなくこの十字架のイエスを見た時に、本当にこの人こそ神の子だった、と言ったのです。

つまり十字架のイエスこそ、地上で権力を持つローマ皇帝以上の王、そのような存在ということになります。イエスの十字架を見た人がそのような声を上げた。そして、このイエスは今も、戦いの絶えない世界の中で、真実に力を持っておられる王だと聖書は教えているのです。

イエスの十字架の死は、ただの死ではありませんでした。ご自身が人間の罪を背負っての死です。イエスはご自分では何も刑罰に値するようなことはしておられません。正しい人でした。しかし、あくまでも人間のすべての罪とその問題をご自分が背負ったので、十字架刑を引き受けられた。それがイエスの死だったのです。

人間の内側には誰にでも罪があります。いつの時代も戦争は絶えません。そして、それは国同士のことだけではありません。私たちの日常生活の中にも、人間同士が共に生きて、人を愛するどころか、返って争ったり、憎しみ合ってしまう、そういう心の思いは私たちの内側にもあるものです。

イエスが地上での生涯を歩まれた時代、そこに確かにイエスの十字架が立てられました。それを見た人がイエスのことを神の子だと言った。この人の内にこそ神がある、と言いました。人と神とを出会わせるものが十字架のイエスだったのです。

そして同じように戦いがある今の時代にも、このイエスの内に真の力があります。悲惨な戦いの現場にもイエスの十字架がそこに立てられています。そして、私たちの日常生活のただ中にもイエスの十字架があるのです。「本当に、この人は神の子だった」このように一人一人が言うことのできる方が、今も生きておられる。この方こそ、この世界で、また私たちの日常の中で、真実に力を持っておられる方です。

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