キリストの愛の広さがどれほどであるか

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聖書の言葉

あなたがたが、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 3章18,19節

赤石めぐみによるメッセージ

「きずついた気持ちはなおりにくい」

そう書いた看板が、よく通る道の金網にかかげられていて、信号で停まるたびに「そうそう」と思います。不用意に発せられた、たった一言の言葉が相手を傷つけ、一生の傷になったりすることもあります。いつだったか、ある中学生の子が、気落ちした様子で「お母さんにこんなこと言われた」といって、LINEをこっそり見せてくれたことがありました。わなわなしながら、見せてはいけないものを見せるように、ちらっと私に見せてすぐ引っ込めたので、じっくりは読めませんでしたが、ひと目でグサッと来る言葉が並んでいました。口で言われただけでも傷つく言葉を、文字にして相手に投げつけたら、相手は何度も繰り返し読んでしまいます。それでは口で1回言うよりも深い傷を負わせてしまいます。カミソリで1回かすったくらいの傷と、ナイフで何度もグサグサ刺した傷と、どちらが深い傷かは明らかです。今の子どもたちは、親にこういうふうに叱られるのか、きっかけはささいなことでも、親に感情的な鋭い言葉を文字で投げつけられてこんなふうに深く傷つけられてしまうのか、と思うと心が痛みました。

SNSでもメールでも、今は恐ろしいほどに言葉の応酬が文字で行われ、炎上し、それ以上の事態に発展してしまうこともあります。そのくらい、私たち人間は、やられたらやり返したくなってしまう性質に侵されており、それによって深く傷つき、悩み、病んでもいます。

新約聖書の中に、パウロという人が書いた手紙がいくつもあります。パウロという人は、はじめからイエスさまを信じていた人ではなく、はじめは教会を迫害していた人でした。それが、劇的な回心を促す出来事があって、回心したあと、イエス・キリストのことを宣べ伝える人になりました。そんなこともあって、教会の中にはパウロをよく思わない人が少なからずいました。「手紙は重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で、話もつまらない」と陰口を叩かれたりもしていました。イエスさまから直接教わっていないのに、そんなことが言えるのか、と批判されることも多く、せっかく福音を宣べ伝えに行っても、町を追い出され、次の町へ次の町へ、海を渡って次の島へ、と旅する人生でした。パウロはそういう自分への批判に対して黙っていない人で、旅先から、もと来た町々の教会に手紙を出し、自己弁護とも受け取れるようなことをしました。けれどもパウロの本心は、自分の人生をこれほどまでに変えたイエスさまのこと、かつてはイエスさまに敵対していた自分を赦して働かせてくださっている父なる神さまのことを、なんとかわかってほしい、という気持ちが一番で、それを伝えるために筆を執り続け、また語り続けたのでした。

パウロの人生をそこまで変えたイエス・キリストとはどんな人だったのか。

イエスさまの人生も、無理解な人・反対者たちとの戦い続きでした。従う人も多かったけれど、だからこそ、ねたまれもし、批判もされました。弟子たちですらわからず屋が多く、大事なときに裏切られました。教えても教えても理解しない人間たちに、どれだけ業を煮やしたことでしょう。イエスさまは慈悲深く優しいお方で絶対に怒らないと思っているかもしれませんが、わからず屋の弟子たちのことは叱ったりもされたのです。近しいはずの人が自分のことを理解してくれないとき、どんなに悔しいかしれません。私たちと同じ人間となってくださったからには、怒りや悔しさの感情がなかったわけではないはずなのですが、そういうやるせない思いになったとき、イエスさまはどうされたか。

言葉を重ねて言い募ってくる相手に対しては、イエスさまは、そう言わせる悪いものに対して「黙れ」とおっしゃったり、ご自分が黙っておられたりしました。人里離れたところに退かれたり、追手を逃れて遠くに旅立たれることもありました。しかし、イエスさまはそういう相手を回避し続けて終わられたのではありません。最後には、弟子たちに実際に裏切られ、不当な裁判で死刑の判決を受け、もっともひどいののしり・あざけり・侮辱にさらされ、身ぐるみ剥がされて体を痛めつけられ、十字架にかけられました。反抗もせずに十字架にかけられる姿を見て、「神の子なら自分を救ってみろ」となお言い募る人々・・・。くやしいではありませんか。それなのにイエスさまは十字架の上でこうおっしゃったのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。

イエスさまがこのとき呼びかけた「父」なる神さまは、旧約聖書を読むと、ご自分に逆らうほんとうに大勢の人たちをお赦しになっている方です。なんでこんな人が赦されるのだ?と思うような人までもお赦しになった方です。教会の迫害者だったパウロすらも赦すほどでした。

私などはまだまだ神さまに問うてしまいます。どうしてこんな人をお赦しになったんですか、と。なぜ黙っておられるんですか、なぜ罰してしまわれないんですか、と。

そのくらい父なる神さまとイエス・キリストの愛は広すぎる。「気が長い」という言葉がありますが、キリストの愛は長すぎる。崇高すぎる。深すぎる・・・。十字架の上で広げられたイエスさまの手は、無理解な私たちを赦し、受け入れてくださろうとする手です。その両腕の中に飛び込み、私たちもまた、赦し難い隣人に対して腕組みを解き、両腕を広げられるようになれたら、と思うのです。

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