思い悩むな

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聖書の言葉

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飮もうかと、また 自分の体のことで 何を 着ようかと 思い悩むな。

新約聖書 マタイによる福音書 6章25節

韓相眞によるメッセージ

思い悩むな!という25節の御言葉をお読みしましたが、この言葉は、続く34節まで合わせて6回も、登場します。それほど、人は思い悩みが多い存在だということです。誰にでも心配があり、生きながら一度も思い悩んだことのない人はいなく、常に心配があるでしょう。一つの心配がなくなると、また、他の心配が生じます。なぜ、人は、心配が絶えず、常に思い悩むのでしょうか?それは、有限であるからです。無限であるなら、思い悩む必要などありません。

人は、制限されていて、有限的な存在であるせいで、常に心配し、思い悩みます。

人は知識において有限です。そのせいで、未来のことが全く分からず、常に未来に対する不安や心配があります。未来だけではなく、現在に起っていることすら全て把握できず、分からないことが多いです。人は、現在においても、未来においても、無知なのです。そこで、常に不安や心配があり、人は、思い悩みます。

また、人は持っている資源が有限です。

資源が無限であれば、何を食べようか、何を着ようかと思い悩まなくてもいいでしょう。有限だから、心配し、思い悩みます。

実は、この世の中で起っているすべての戦争や争い、競争の原因、それは、資源が有限であるからです。限られている資源を巡り、人と人、国と国が、互いに争うのです。資源が無限にあるのなら、争うことも、競争することもないでしょう。しかし、資源が有限であるため、その有限な資源を巡って争います。取り合います。手に入れたとしても、それを奪われるかもしれないから、不安になり、常に心配します。持っている資源が有限であるため、人は、思い悩みます。

また、人は、能力も有限です。

私たちに襲ってくる問題全てを解決できる能力がありません。能力が限られています。そこで、不安と心配があるのです。もし、どんな問題でも解決できる無限な能力があれば、不安に思う必要も、思い悩む必要もないでしょう。能力が有限であるせいで、人は、思い悩みます。

このように、人間は、有限であるせいで、常に不安や心配があり、思い悩みます。しかし、本来、人間は、このように、思い悩むように造られたのではありませんでした。本来、思い悩む存在ではないということです。

最初、神様が人を造られ、人がエデンの園で生きていた時には、不安や心配、思い悩みなど全くありませんでした。なぜなら、無限な神様が共におられたからでした。無限な神様が治めておられ、無限な神が共におられるエデンの園は、何も欠けることのない完璧な世界でした。言わば、楽園だったのです。ところが、人間は、無限な神に背き、禁じられた善悪を知る木から採って食べ、無限の神から離れて行きます。

人間の悲劇は、ここから始まりました。神様から離れた人間は、極めて制限された資源に閉じ込められ、極めて限られた有限な資源と能力で生きなければならなく、不安や心配で、常に思い悩むようになりました。

では、どうすれば、こんな不安や心配、思い悩みから自由になることが、できるでしょうか?

無限な神のところに帰って行くことです。無限な神のところに帰って行き、神様に繋がれれば、その神の無限が私の無限になるからです。無限な神様が、私の牧者になり、私を養い世話をしてくださるため、何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかと、未来のことも、現在のことも、思い悩まなくてもいいのです。この地での、私たちの有限な命のための心配も、要りません。私たちは私たちの命が有限であるため、年老いて行くことに、その死に対して不安に思い、恐れ、思い悩みます。しかし、無限な神のところに帰って行けば、その神の無限の命が私のものになります。神の永遠が私の永遠になり、私たちは永遠の命が得られます。

では、どうすれば、神のところに行くことができるでしょうか?

ヨハネによる福音書14章6節で、イエス様は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」私たちは、ただイエス・キリストを通してのみ、神のところに帰って行くことができます。

有限な自分の資源で生きていこうとするのではなく、無限な神のところに帰って行く時に、その時初めて、私たちは、不安や恐れ、思い悩みから、まことに自由になります。不安と恐れ、思い悩みが取り除かれ、永遠の安息が得られます。

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