初夢よりも最後の夢を!

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聖書の言葉

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

新約聖書 ヨハネの黙示録 22章13節

吉田隆によるメッセージ

この言葉は、前回お話したヨハネの黙示録の中で、ヨハネに現れたイエス・キリストの言葉です。アルファとオメガというのは、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字です。アルファが最初で、オメガが最後。それで「わたしが最初であり、最後。初めであり、終わりだ」と、イエスは言われたのです。ですが、いったい、これはどういう意味なのでしょうか。

新約聖書だけを読むと、何か、イエスの誕生のお話、クリスマスのお話からすべてが始まった。キリスト教は、イエスという教祖の誕生から始まったと、誤解されるかもしれません。けれども、同じヨハネという名前の「福音書」、ヨハネ福音書を読みますと、このイエス・キリストは、もう世界の初めからおられた。いえ、この世界そのものがキリストによって創造されたのだと、はっきり書いています。そのように永遠から神であられたお方が、人となられた。それがクリスマスなのですね。そして、このイエス・キリストは地上の生涯を生きて、十字架にかけられて殺されますが、三日目に復活し、天に昇られます。そうして、やがて世の終わりの時に再び来る。これが、福音書に書いてあることなのです。ですから、聖書によれば、このイエス・キリストこそが、世界の「最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。アルファであり、オメガである」ということなのです。

さて、このイエスが、パトモスという小さな島に一人ぼっちでいたヨハネに現れて、お語りになった言葉、彼に示された幻の数々、それが黙示録という書物だとお話しました。前回はその最初の部分についてお話しましたが、今日はその続きです。

それから後、続けてヨハネが見た幻は、実に恐ろしい世界の姿でした。大地震や異常気象による大飢饉、疫病や戦争など、次から次へと起こる災いの中で、人々が苦しむ姿です。そのような中で、この世の権力やお金で人を操る人々、宗教の名を語って人をだまそうとする者たちが出てきては、人々を食い物にして行きます。これは、なにも今の時代のことを言い当てているわけではありません。黙示録は、いつの時代、いつの世の中でも起こる人間世界の罪や悲惨、悪が支配している世の中の姿を描いているのです。

けれども、世界はそうして破滅を迎えておしまい、というのではありません。人間的には、絶望的に見えるこの世界を、それでもなお救う方がおられる。いえ、むしろこの世界に起こるすべてのことをご存じで、導いている方が天におられる。その方が、やがて悪をことごとく滅ぼし、この悲惨に満ちた世界を全く新しく造り変えてくださると、ヨハネは知らされるのです。その方こそが、あの「初めであり、終わりである方」。イエス・キリストです。

ヨハネは、最後に、いっさいの悲惨が過ぎ去り、この世界の悪の権化であったサタンが滅ぼされ、そうして人間の死そのものさえも滅ぼされた世界、悲しみも嘆きも無い、すべての涙が拭い去られる、全く新しい世界の幻を示されます。それは実に美しい天の都、神の都の姿でした。そこには太陽も月もありません。必要がないのです。昼も夜も、神の光、イエス・キリストの光が照らし続けているからです。そこに、あらゆる国々から、あらゆる人々がやってきます。この神を神と信じる人たち、イエス・キリストを真の王の王と仰ぐ人々がやってきます。そこには輝くような命の水が流れ、その命の水が人々の魂を永遠に癒して行くのです。これが、ヨハネが見た最後の幻でした。

まもなく、2021年も終わります。この一年は、皆さんにとって、どのような一年だったでしょうか。今年もまた、コロナに翻弄された一年でしたね。苦しい一年だったかもしれません。それでも、あと一週間たらずで、カレンダーは新しい年に切り替わります。また気持ちを切り替えて、新しい年に期待しようと多くの人々は考えるでしょう。いい初夢を見ようと。

けれども、聖書は、もっと現実的です。この世界が存在する限り、人間の罪と悲惨は絶えることが無いとはっきり言います。聖書では、神を信じることは、決して単なる気休めではないのです。辛い気持ちをごまかす方便でもありません。そうではなく、この辛い現実のただ中でも、世界の初めから終わりまでを支配して、この腐敗した世界を、この私を、それでも救ってくださる、愛して下さる方がおられるという真理を信じることです。そして、その方にまっすぐ心を上げ、確かな眼差しをもって生きることなのです。たった一人ぼっちのヨハネでしたが、彼は、神によって与えられた幻によって、そのような確信を取り戻すことができたのでした。

人間を真に生かすのは、あやふやな初夢などではありません。そうではなく、この世界と歴史の「初めであり終わり」であるお方が、今日もこの小さな私と共にいてくださるという確信です。初夢よりも最後の夢、いえ終わりの日の確かな希望を胸に、この年もそして来る年も、生きていくことができるなら、なんと幸いなことではないでしょうか。皆様の新しい年の上にも、この主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように、心からお祈りいたします。

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