子山羊か子牛か、それとも

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

新約聖書 ルカによる福音書 15章28,29節

藤井真によるメッセージ

イエス・キリストが、ある時、一つの譬え話をしてくださいました。お父さんが息子に肥えた子牛を屠って盛大な祝宴を開いたのです。誕生日や結婚の祝いではありません。父の家を離れていた息子が、しばらくして戻って来たという、それだけの理由で祝宴を始めたというのです。しかも、息子は遠い国で大きな手柄を立てて、帰って来た訳ではありませんでした。「父と一緒に居るのは嫌だ」と言って、勝手に遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くしたのです。やがて食べるものにも困り、豚の餌であるいなご豆を食べてでもお腹を満たしたいと思うほど、とても惨めな経験をすることになりました。「これではいけない。自分は豚なんかではない。人間なのだ」と思った時に、かつて、父の家で生活していたことを思い出したのです。あそこにはパンがたくさんあったということを思い起こし、いのちを繋ぐために、人間らしくあるために、父の家に帰る決意をします。

そんな息子のことを、父はいつも心を痛めながら待ち続けていたのです。だから、父は息子が帰ってきたことを、異常なほどに喜んでくださいました。そして言うのです。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」帰って来た息子はパンどころか、屠った子牛をいただくことができました。パンよりも子牛のほうが何倍も豪華だということよりも、罪深い自分にまったく見合わない豪華で美味しい食事を、父が用意してくださり、喜びの祝宴を開いてくださったということ。このことに息子は驚きつつも、心打たれたことでありましょう。息子は屠られた子牛をいただきながら、父の愛と赦しを味わいました。生きる喜びというのは、パンを食べることができれば、それでいいというものではなくて、何よりも父と共にいることなのだということを初めて知ったことでありましょう。そして、イエス・キリストは、この話に出てくる父の姿こそ、あなたがたの神様なのだと、私たちに紹介してくださるのです。

さて、実はこの譬え話にはまだ続きがあるのです。帰って来た息子にはお兄さんがいました。お兄さんは父の家から出ることなく、真面目に仕えていたのです。けれども、仕事から帰って来たら、家で祝宴が開かれていました。あのどうしようもない弟が帰って来たらしい。それなのに、父は弟を叱るどころか、大喜びして、祝宴を開いている。父のために真面目に生きてきた自分が、まだ食べたことがない子牛を屠って、弟にあげているではないか。私が友達と宴会をする時には、子山羊一匹すらくれなかったのに。こんなおかしなことがあっていいものか!兄の心は完全に怒りで支配されてしまいます。

兄は父の心、つまり神様の心を十分に理解することができていませんでした。父の近くで一所懸命仕えていたかもしれませんが、兄もまた弟のように失われた息子だったのです。実は自分もあの弟のように、家を出て自分の思うように生きたいと願いながら、じっと我慢をして真面目な振りをして生きていました。なぜなら、最後にいただくことができるご褒美や対価を期待していたからです。でも父は、本来ご褒美などいただくことができないはずの弟のために祝宴を開き、子牛を屠るという理解しがたいことをしたのです。一方で自分は父から正しく評価されていないと思いました。それによって、自分の思い描いていた将来がすべて崩れ落ちるような思いに捕らわれたのです。すべての計算が父のせいで狂ってしまったのです。

しかし、父はそんな兄息子のために、祝宴の席を途中で外してまでして、外に出て来てくださいました。兄息子もまた、父にとって愛する息子であることに変わりないからです。父は、「こっちに来なさい」と言って、兄息子を慰めてくださり、こう言うのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

日曜日、キリスト教会でささげられている礼拝は、神の国の祝宴と譬えられることがあります。礼拝の中で屠られた子牛を食べる訳ではありませんが、「聖餐式」と言って、パンとぶどう酒をいただきながら、イエス・キリストによって救われた喜びを教会の仲間と共に味わうということをしています。礼拝の喜びに連なり、そこで神様と真実に出会うならば、私たちはもう、豚の餌であるいなご豆を食べてでもお腹を満たしたいなどというふうに、惨めな思いをしなくてもよくなります。なぜあの人は肥えた子牛で、なぜ自分には何にもないのかというふうに、評価や比較の世界の中で苦しむということから解き放たれます。この私を本当に生かしているのは、イエス・キリストが与えてくださる救いの恵みだけだということが、よく分かるようになるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。」そのようにおっしゃってくださる神様が、この朝もあなたと共にいてくださいます。「わたしのものは全部お前のものだ。」そのように約束してくださる神様の豊かさに養われて、皆様の新しい一週間の歩みが祝福されたものとなりますように。

関連する番組