いのちにまさる恵み

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聖書の言葉

あなたの慈しみは命にもまさる恵み。

わたしの唇はあなたをほめたたえます。

旧約聖書 詩編 63編4節

藤井真によるメッセージ

「あなたの慈しみは命にもまさる恵み」

本当に美しい響きをもった言葉だなと思います。そしてまた同時に不思議な響きをもった言葉です。詩人は命にもまさる恵みがある。それは神さまの慈しみだと言うのです。けれども思うのです。そもそも、いのちにまさる恵みなど、果たしてこの世に存在するのだろうかと。私たちにはそれぞれ大切なものを持って生きています。家族であったり、健康であったり、仕事であったり、財産であったり…、自分にとって大切なものをあげればいくらでもあげることができるのではないでしょうか。けれども、そのなかで結局、何がいちばん大切かと言えば、それは「自分の命」と答える人が多いのではないでしょうか。なぜなら、自分の命を失い、自分の存在が消えてしまえば、大切なものを大切なことして認識することすらできなくなるからです。この私の命があってはじめて、大切なものを大切なこととして、喜びを喜びとして生きることができると考えるのです。

しかし、神さまが私たちに与えてくださるもの、それは命にもまさる恵みだとおっしゃるのです。ただ、ここで誤解しないでいただきたいことがあります。それは神さまは決して「人間の命なんか大事じゃない。それよりもっと大事なものがある」と言って、私たちの命を軽んじておられるのではありません。そうではなくて「命にまさる恵みを知っているからこそ、今ある地上の命を精一杯大切にして生きることができるのだ」と約束してくださるのです。

詩編の言葉に思いを巡らせていく時、私はクリスチャンの詩人星野富弘さんという方が書いた詩を思い起こします。

いのちが一番大切だと思ったころ生きるのが苦しかった

いのちより大切なことを知った日生きるのが嬉しかった

本当に素晴らしい信仰の言葉だと思います。そして、同時にこの星野さんの詩もまた不思議な言葉です。命を一番大切にする生き方こそ、人間の喜びであるはずだと信じているのに、その歩みが苦しみそのものだったと言われるからです。それに続けて星野さんは、「いのちより大切なことを知った日生きるのが嬉しかった」と言います。「命にまさる恵み」を神さまの中に見出していた詩編の詩人と重なる部分があります。

星野さんはもともと体育の先生をしておられたのですが、授業で体操の指導しておられた時に、不慮の事故に遭い、体の自由を失ってしまいました。体が動かなくなり、何もできなくなった自分の姿を見て本当に惨めに思った。そして何もできない自分がいても、意味がないのではないかという思いに捕らわれたと言います。星野さんは、自分の中に起こった出来事を受け入れることができず、自分の存在を殺してしまいたいほどに魂は疲れ、渇き切っていたのです。

しかし、神さまの言葉を聞いたとき、そういう自分が間違っていたことに気付かされます。私たちの人生にも、時に理解しがたい大きな出来事が起こります。その時ばかりはさすがに、不平を述べることや、周りに迷惑をかけることや、自分の存在を消してしまうことさえも許されるのではないかと、思ってしまうところがあります。星野さんもはじめはそうでした。こんな不幸な出来事が起こった。体を自由に動かすこともできない。だから自分は生きている価値がないと思ったのです。しかし、そのような思いに捕らわれ続けたのは、自分の「罪」であったことに、気付かされたというのです。

自分の罪を知る。それは辛いことです。理解しがたい出来事を受け入れることは苦しいことであるかもしれません。しかし、そのような自分をそおっと包み込んでくださる神さまの恵みを知るのです。どう考えても自分は惨めで、生きていても意味がないとしか言いようがなかった自分を、神さまは価値ある者として愛し抜いてくださったという喜びを同時に知るのです。「いのちより大切なことを知った日」それは主イエス・キリストに出会った日です。キリストに出会い罪を赦していただき、神さまと共に生きる命を信じた時です。

また、いのちより大切なことを知った日というのは、自分のためではなく、誰かのために生きることの幸いを知った日でもあります。星野さんはある本の中でこのように言っています。

自分のためだけに生きようとしたときは、ほんとうの意味で、自分のいのちを生かしているのではない。

いのちというのは、自分だけのものではなくて、だれかのために使えてこそ、ほんとうのいのちではないか。

「いのちが一番大切だと思っていたころ」それは自分のために生きていた日々です。自分の命は自分で築き上げるものだと思って生きていたから苦しかったのです。だから自分が築き上げてきたものが崩れ去る時に、まるで自分の存在や価値さえも崩れてしまったと思い違いをしてしまったのです。そんな星野さんが、イエス・キリストに出会い、命より大切なものを知った日から、生きることが嬉しくなりました。この時の喜びというのは、明らかに誰かのために生きることができる喜びです。誰かのために生きるというのは嬉しいことでもありますし、様々な労苦を負う歩みでもあります。でもそこで生きる喜びを見出すのです。生きるのが嬉しいと言えるのです。命より大切なものを知っているからこそ愛の労苦を負う生き方ができるのです。

主イエス・キリストは私たちのために生きることを喜びとしてくださったお方です。十字架で命を献(ささ)げてまでも私たちを愛し、私たちと共に生きることをよしとしくださいました。そして、私たちへの愛を担ってくださった主イエスの歩みは、決して死という空しさで終わるものではなかったのです。なぜなら主はよみがえられたからです。この主イエス・キリストの命、罪と死に打ちかった復活の命に結び合わされていること信じて生きはじめる時、私たちの労苦の多い歩みも空しく終わることがないのだと信じて生きることができるのです。

今日は主の日、日曜日です。命より大切なものを知る日でもあります。主が甦ってくださったことを共にほめたたえたいのです。

「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」

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