いなご豆かパンか、それとも

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聖書の言葉

何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」

新約聖書 ルカによる福音書 15章13-17節

藤井真によるメッセージ

あるフランスの美食家がこのようなことを言っています。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう。」あるテレビ番組をとおして知った言葉です。毎回ゲストの方が来て、自分の思い出の料理やお店を紹介してくれます。高級なお店、一見さんお断りのお店などハードルの高いお店も多いのですが、なかにはお袋の味、愛する家族と一緒に行って食べた料理、落ち込んでいた時に恩師や先輩から奢ってもらった料理など、心が温まるエピソードを聞くことができます。

ところで、最初に紹介した美食家の言葉ですが、少し嫌な気分になる人もいるかもしれません。安いものでも高いものでも、自分が好きなもの、自分が美味しいと思うものを食べたらいいではないか。だいたい人間の価値というのは、食べているもので決まる訳ではないと思うからです。そのとおりかもしれません。でも一方で、「何を食べているか」ということと「自分とは誰か」ということが、実は結びついているということがあると思うのです。何を隠そう聖書が語るメッセージもこれと深く関わっているところがあるからです。

イエス・キリストはある時一つの譬え話をしてくださいました。父のもとに二人の息子がいました。けれども弟息子のほうが父の家には居たくない。父と兄と一緒に居たら、夢も希望もないと言って、家を出て、遠い国に旅立ったのです。父から財産を分けてもらい、それをすべてお金に換えました。でも弟はまともに働きもせず、放蕩の限りを尽くしたのです。お金もなくなり、さらにその地方にひどい飢饉が襲い、食べるにも困り始めました。

それである人のところに身を寄せたのです。その人は、ユダヤ人が忌み嫌う豚を飼っている人でした。その人は弟の面倒を見てあげるわけでもなく、豚の世話をさせたのです。弟にとってこれほどの屈辱はありません。しかも、胸を打たれるのが、弟がその豚の食べるいなご豆を食べてでもお腹を満たしたかったということです。「いなご豆」というのは、とても苦いそうで、人間が食べられるようなものではないと聞いたことがあります。でも、贅沢なことを言ってなどいられない。不味かろうが、豚の餌であろうが何でもいい。とにかく、お腹いっぱいになりたいと思ったのです。本当に自分は惨めだと、弟は思ったことでしょう。父の家を出た時、誰がこんな悲惨な自分の姿を想像したでしょうか。

弟は、豚の餌であるいなご豆が食べたいと思うほどに絶望し、惨めさを覚えました。でもそこで初めて「我に返った」のです。その時、弟の心に思い起こされた光景は、父の家での生活でした。元々、こうなってしまったのも父の家を離れたことからすべてが始まりました。父の家にはたくさんの食べ物がありました。家族の一員ではない「雇い人」でさえも有り余るほどのパンを食べることができたのです。まして、父の「息子」である自分はどれほど恵まれていたかを思い出したのです。

生きるために、何とかいのちを繋ぎ止めるために、弟は父の家に帰る決意します。でも一つ問題があることが分かりました。勝手に家を出て、放蕩の限りを尽くしたのですから、今さら「息子」の顔をして、父のもとに帰ることなどできないということです。それで、「雇い人」としてならば、受け入れてもらう可能性があるかもしれない。そこにすべてを託したのです。

けれども、帰って来た息子を見つけた父は、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。父は怒るどころ、弟のことを「雇い人」ではなく、「息子」としてもう一度受け入れたのです。イエス・キリストは、「この父の姿こそ神様のお姿なのだ」とおっしゃいます。最後に父は言います。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

弟はせめてパンだけでも食べることができたらと思っていました。でも、父が用意してくださったのは、いなご豆でもパンでもありませんでした。肥えた子牛でした。なぜ父はそこまでしてくださるのだろう?弟は驚いたことでしょう。でも、祝宴の中で、豪華な美味しい料理をいただきながら、こんな自分であっても、父である神様から愛され、赦されている存在であるということを心の底から味わったことでしょう。生涯その味を忘れることはなかったでしょう。

私たちの舌の記憶というのは、料理と共に、その時の思い出が一緒についてくるものです。神様の愛と赦しを知る時、いなご豆のような苦く悲惨な過去の記憶から、美味しい肥えた子牛の記憶へと新しく塗りかえられていくのです。そのために、イエス・キリストが私たちの罪の悲惨をすべて背負い、十字架でいのちを献げてくださいました。そして、消えることのないいのちの喜びと平安を与えてくださったのです。

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