救われるポイント

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聖書の言葉

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

新約聖書 ルカによる福音書 18章13節

藤井真によるメッセージ

普段、私たちは色んなところで、色んな物を買って生活をしています。私もコンビニやスーパー、本屋や薬局などにはよく足を運びます。また、一歩も家の外に出なくても、パソコンやスマホから簡単に買い物をすることができますね。とても便利な時代になりました。また、いつからでしょうか?新しいお店で買い物をする度に、いわゆるポイントカードというものをもらうようになりました。ポイント貯まったら、割引になる特典があったり、ポイントの数がそのまま現金の代わりとして使える場合があります。

ところで、私には6歳の息子がいます。ずいぶん色んなお手伝いができるようになりました。それで私も色々と息子に頼み事をするようになったのですけれども、その度に100ポイントとか、300ポイントというふうにポイントをあげるのです。「ポイントが貯まると、好きなお菓子を買ってあげるから」と、つい約束をしてしまいました。息子もそのことを喜んでいるようで、頼んでもいないのに自分から進んで手伝いをしてくれるようになりました。嬉しいことですが手伝いをする度に、「今のは何ポイント?」と聞いてくるのです。親としては、半分遊び感覚でポイントをあげていたのですが、子どもはとても真剣です。本当はポイントに関係なくお手伝いができたり、親も子どもにプレゼントを買ってあげたりすることができたらいいのですが…

自分は何ポイント持っているのか?どうしたら早くたくさんのポイントを貯めることができるのだろうか。そんなことばかりがついつい気になります。それは買い物やお手伝いだけの話ではないでしょう。私という人間はいったい何ポイント持っているのだろうか?あの人は何ポイントぐらい持っているのだろうか?というふうに、ポイントで自分のことや人のことを測ってしまうことがあります。他の人にはない優れたものを自分だけが持っていたならば、誇らしげになるでしょう。反対に、他の人が自分よりも優れたものをたくさん持っていたならば、落ち込んでしまい、自信を持って生きることができなくなってしまいます。

イエス・キリストがお語りくださった譬え話に次のような話があります。二人の人がお祈りをささげるために神殿に行きました。一人は「ファリサイ派」と呼ばれる人。もう一人は「徴税人」と呼ばれる人です。最初に出てくるファリサイ派の人はこのように心の中で祈ったというのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」つまり、自分は神様の前にまったく罪を犯していない。自分の中にはマイナスの要素は何もない。むしろ、「プラスになるポイントばかりです」と言って、自分の素晴らしさを神様にアピールするのです。丁度その時「徴税人」の姿が目に写ったのでしょう。「罪人」と言えば、「徴税人」と呼ばれるほどでした。当時ユダヤを支配していたローマに納めるための税金を、必要以上に集め、差額を自分の懐に入れていたのです。神様の前にも人々の前にも大きな罪をおかし、救いようのない人間だと思われていたのです。その徴税人と比べて、自分は何て立派な人間なのだ。自分こそ神に救われるべき人間だと言って、自分のことを誇ったのです。

一方で、徴税人は目を上げることもできず、胸を打ちながらこのように祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」自分の中を覗き込んで、どこをどう探しても救われるべきプラスのポイントなどありません。「神様、あなたの目に私はマイナスでしかない存在です。しかし、どうか私を憐れんでください。慈しみのまなざしで私を見つめてください。あなたが憐れんでくださるならば、私は救われます。」そのように心の底から祈ったのです。

譬え話を語り終えられたイエス様は、「義とされて帰ったのは、徴税人のほうだ」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、神様の前に正しいものとされるということです。つまり、神様に救われて帰ったのは、「罪人の中の罪人」と呼ばれていた徴税人だったのです。神様がイエス様をとおしてお与えになる救いは、この世の計算、この世のポイント制度では、決して測ることはできません。自分で何か徳を積んだり、逆に誰かを見下すような仕方で自分を高めようとする生き方は、やはりどこかで行き詰まりを覚えるだけで、空しいだけなのではないでしょうか。

しかし、神様はそのようなあなたのことを見捨てることなく、愛しておられます。救われるポイント、それは私たちの側にあるのではなく、神様が私たちのためにしてくださったことの中にあります。救いは神様にかかっているのです。イエス・キリストは、十字架でいのちを献げてくださるほどに低く貧しくなってくださいました。これ以上にないマイナスの極みに立ってくださいました。そのキリストの十字架のおかげで、罪にも死にも負けることがない豊かないのちを私たちも得ることができます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と心から祈る時、キリストの愛が迫ってくるのです。

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