この子らを世の光に

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

新約聖書 マタイによる福音書 5章14,15節

長谷部真によるメッセージ

先月までオリンピックとパラリンピックの報道がテレビを賑わせました。日本の選手がメダルを獲ると頻繁に速報が流れるなど、華々しいニュースがすぐに耳に入る時間が続きました。様々な思いがある一方、オリンピックとパラリンピックのニュースを見るたび、表彰台でメダルをかける選手たちと、選手たちの胸に光るメダルに目がいきます。選手たちが表彰されるまでの時間や努力思いに対して、素直に讃える思いが湧いてきます。ニュースを見ていて、ふと思ったことがあります。それはメダルを獲れなかった選手には、なかなかスポットが当たらないということです。当然のことなのかもしれませんが、オリンピックに参加出来た人はたくさんいるけれど、一人一人にスポットが当てられたら、自分がもっと一人一人に関心を寄せていれば、もっと素晴らしかっただろう、そんなことを考えていました。

パラリンピックのニュースを眺めながら、学生の頃、社会福祉に関する授業で、先生が「この子らを世の光に」という言葉を紹介してくれたことを思い出しました。この言葉を残した糸賀一雄さんは、滋賀県にある「近江学園」を創設されたクリスチャンで、戦後の混乱の中で、戦災孤児を預かると共に、「知的障害児の教育を行う施設を作りたい」という思いから学園の創立に携わった方です。「この子らを世の光に」という言葉。ハンディを持つ方たちに向けて、「この子らに世の光を」と考えることがあります。しかし糸賀さんの言葉は、「を」と「に」を変えるだけで、全く異なる眼差しになります。「この子らを世の光に。」糸賀さんは他に、次のような言葉を残されたそうです。「すべての人間は生まれたときから社会的存在なのだから、それが生き続けていく限り、力いっぱい生命を開花していくのである。」創立に携わった近江学園が、社会でもて余された子どもたちの終着駅であってはならず、始発駅として用いられるように、という思いがあったそうです。オリンピックやパラリンピックのニュースで、メダルを獲った選手に目を向けていた自分とは異なる眼差しでした。「この子らを世の光に」神様はこのような眼差しで私たちを見ておられるのではないか。そんなことを思い巡らしていました。

イエス様は、弟子たちをはじめ、多くの人々に、次のように教えられます。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」イエス様は一人一人に語りかけます。「あなたがたは世の光である」と。この言葉を聞いたとき、皆さんどのように思われたでしょうか。私もこの言葉に何度も励まされてきました。とりわけある競争の中で失敗を重ね、自分の自信を失い、心の中に「自分には何の価値もない、光も無い」という思いに満たされたときです。身を削って光ろうとして、光を失った、そんな思いになりました。光ることの出来ないこんな自分に価値があるのだろうか。しかしそんな問いに対して、イエス様は「あなたがたは世の光である」と語られるのです。イエス様のおっしゃる光とは、「ともし火」であると、今朝の御言葉は教えます。詩編119編105節に、次のような言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯(:105)。」こんな私にも、光の源である神様という方は、御言葉を通して、光を灯してくださっておられる。そのことに気付かされたとき、元気づけられました。

暗闇が覆うような困難の中にあっても、神様に灯された灯火を世の光に。私たちは自分が光ろうと身を削って努力することがあります。しかし神様の眼差しから見たとき、私たちには既に神様からの光が灯されている、その神様から灯された灯し火に私たちが気づけたら、家全体を照らすように、その光を人々の前に輝かすことが出来たら、どれだけ素晴らしいでしょうか。イエス様は私たちに、その神様の眼差しに気づくよう、教えておられるのではないでしょうか。新しい一週間、神様の支えと励ましが豊かにありますように。良い1日をお過ごしください。

関連する番組