神がいるなら、なぜ悪があるのか

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聖書の言葉

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

新約聖書 テモテへの手紙一 2章4節

金昭貞によるメッセージ

ノンクリスチャンの方々から、よく聞かれる質問があります。「神様がいるなら、なぜ、この世に悪があるのか」ということです。これは「神様が本当に存在するならば、この世に悪などあるはずかない」という疑問からの問いでしょう。そこで、古代の哲学者エピクロスは「神が、悪を取り除く「意志」がなければ、「善」ではないし、また、神が悪を取り除く「能力」がなければ、「全能」ではない」と語りつつ、「善でもなく、能力もない方なら、神と呼ばれない」と述べました。エピクロスだけでなく、多くの人々は、こうして、悪に対する答えを神様から見つけようとします。より率直に言えば、人々はこの世の悪の問題を神様のせいにしようとし、さらには「だから、神は存在しないのだ」という無神論を主張しているのです。

それもそのはず、世の中には、私たちが理解できない、さまざまな悪による問題が起きています。それゆえ「神様が、善であり、全能な方ならば、なぜすぐに悪を解決しないのか?神様が、悪が起こる前に、あるいは起きた直後にでも、罰を与えるなら、この世に悪による苦しみはないはずである。それなのに、神様はまるで眠っているかのように、何もなさっていない」という疑問を抱くことはありうることだと思います。

ところが「神様がいるなら、なぜ、この世に悪があるのか」というこの問いは、自分自身は悪など犯さないということが、前提とされた問いですね。どちらかというと被害者の立場における質問です。「神様が、私を苦しめる加害者を直ちに罰せられるならば、被害者である私が、あるいは、あの時代のあの人たちが、あんなに苦しまなかったはずなのに」という問いです。ここに、この問いの誤謬があると思います。なぜなら、全ての人は、それが大きなことであれ、小さなことであれ、悪を犯す可能性のある罪人だからです。私たちは被害者になる時があれば、加害者になる時もあるわけなのです。

聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている(ローマ3:23)」と語っています。神様の目から見ますと、人間は全部罪人であって、正しい人は誰もいないです。私たちは、いつでも、悪を犯し得る罪人なのです。知りながら、または知らずに、悪を犯してしまいます。それゆえ「神様がいるなら、なぜ、悪があるのか」という問いは「神様がいるなら、なぜ、悪を犯している私が存在するのか」と言い換えることができます。さらに言い換えますと「神様がいるのならば、どうして、罪を犯している私を直ちに罰せられないのか」という問いになります。そして、もし、神様が、直ちに、悪を裁かれるならば、一番、最初に罰せられるのは、私たち自身になるかもしれません。

では、なぜ、神様は、直ちに私たちを罰せられないのでしょうか。今朝の御言葉は、「神様は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるから」と語ります。神様は、すべての人が、悔い改めて、救われることを望んでおられます。つまり、神様は悪を罰する意志がないのではなく、また、悪を罰する能力がないわけでもなく、罪人が悔い改めることを待っておられます。全ての人が、聖書が語る神こそが、まことの神であるという真理を悟るまで待っておられるのです。それゆえ、神様は、私たちを直ちに罰せられないわけなのです。神様がいるのに、なぜ、悪があるのかというと、それは、長く堪える神の愛のゆえなのです。

最後になりましたが、この世に起こる全ての現象を、私たちが完全に理解することはできません。「神の愛の故に」ということで説明できないことが、たくさんあります。しかし、確かなことは、すべての人々が救われることを願っておられる神様は、今もあなたが戻って来ることを忍耐強く待っておられます。あなたが、まことの真理を知るようになることを切に望んでおられるのです。

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